Sola Presents

はじまりはこうでした。
執筆者のひとり村中が、編集者のSさんとお茶を飲みながらこうつぶやいたのです。
「老人施設でじいちゃんたちと話をするなかでいっちばん盛り上がるのは、プロレスとかブラウン管のなかの『悪役』に話がおよんだときなのよねぇ~」


「へぇ! 正義の味方じゃなくて、悪役のほうで盛り上がるの?」とSさん。
「うんうん。『あいつときたら、ほんまにいけすかんやつでなぁ~』なんて語っているときのじいちゃんの顔は、一発ぶん殴ってやらんと気がすまんわいって勢いで、要するに悪役と互角にわたりあうパワーをかもし出してるのよ。正義の味方は、どこまでいってもぽや~んとした憧れの気持ちを思い起こすだけで、自分に戦いのパワーは必要ないもんね」
しゃべり終わってずるずるとバナナジュースをすすっていた私の横で、もうSさんの頭のなかでは本企画への計画は進められていたようです。


S「悪役は、悪人とはちがうのよね。さまざまな人の絡みあいのドラマ、つまり人生ドラマのなかで引き受けるしかなかった、ある種の“仮面”なんじゃないかしら」
村「はぁ、仮面ねぇ~。んじゃ、悪役だけじゃなくって、正義の味方の月光仮面とか、タイガーマスクとか、タキシード仮面とか……その他もろもろ、なんちゃら仮面っていうのが出てくるけど、あういうのもみんな、ただ素性がばれるのがまずいので顔を隠してるっていうんじゃなくて、宿命引き受けの証なんですかねぇ~」
S「おもしろ~い! とくに正義の味方より悪役に向かったとき、こちら側にいるもののエネルギーがひきだされるっていうのが、ポイントだわ。ねぇ、この際、仮面にこだわらず、悪役を引き受けざるをえなかったものを見つめてみましょうよ」
村「そうですねぇ。印象ですけど、大人の娯楽のなかで登場する悪役と、子ども文化のなかで登場する悪役は、なんかちがう気もするし……」
S「印象じゃだめです! ちゃんと検証しなきゃ。そうですね、毎月、大人文化のなかに登場する悪役と子ども文化のなかで登場する悪役をひとりかふたりずつ見ていくことにしましょう。いつからにしますか?」
村「い、いつからって?」
S「ゴールデンウィーク明けからでどうですか? おひとりでできますか?」


まんまと罠にはまってしまった、いたいけな村中。
「た~すけてぇ~!!」という叫び声にこたえてさっそうと現れたのが、白馬の剣士ならぬ「象の使い手」本木洋子。彼女は、世界中どこでも怪しいにおいを嗅ぎつけるとすぐに駆けつけ、生きものならなんでも手なずけてしまう強者。
シルクロードで知られるタクラマカン砂漠をラクダに乗って1か月も旅したり、モンゴルの大草原を馬で走りまわったり、インドネシア・スマトラトラ島の熱帯林火災で保護されたスマトラトラの健康診断に立ち会ったり、ついにはタイの国立ゾウセンターでゾウ使いのトレーニングをうけて、アマチュアゾウ使いに認定されたという。
でも、そんなおもしろい体験がいずれも作品化されていないという、なんとも理解しがたい人。彼女の手にかかれば、どんな悪役も「はは~っ」と平伏すにちがいない。彼女に大人文化のなかの悪役をまかせるしかない。んでもって村中は、幼き日に出会った本やブラウン管のなかの悪役とささやかに向きあおう。うんそれしかない。


というわけで、これから毎月、さまざまな場所からご登場ねがうさまざまな悪役たちとの格闘の様子を公開いたします。なんせ、本木さんはともかく、未熟でかよわい村中が悪役に立ち向かうのです。誤解や見すごしもあるにちがいありません。どうか、読者の皆さま、毎号いろいろなご意見アドバイスをいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

(村中李衣)


*  *  *



「悪役ファイル」の企画があるんだけど、いっしょにやらない?
村中さんから誘われたとき、即座に「おもしろそうねえ」と乗ったのが、昨年(2012年)の暮れ。
「悪役」と聞いたとたん、小学低学年のころに放送されていたラジオドラマ『新諸国物語』の「笛吹童子」が浮かんだ。
夕暮れに「♪ヒャラーリヒャラリコ ヒャリーコヒャラレロ」と福田蘭童の笛の音が流れてくると、どんなに夢中で遊んでいても家に駆けもどり、ラジオの前に座ってドラマの世界にのめりこんだ。登場人物のなかに「霧の小次郎」という妖術使いがいて、最後のほうで死ぬのだが、悪役の最期に大声で泣き伏した。細かいストーリーは忘れたが、泣いた記憶は消えない。
ドラマや映画に登場するいわゆる「悪役」は、登場人物と演じる俳優や声優が一体となって、強烈な印象を与えてくれる。主人公は美男美女で、悪役はどうみても憎たらしい顔をした悪い奴らなのだ。
学年が上になると、姉が愛読していた「少年少女小説」を、むずかしい字はとばしてかたっぱしから読みふけるようになった。吉川英治、高垣眸、大仏次郎、海野十三など、どれくらい読んだだろう。そんな子どもだったから、大衆文芸といわれる時代小説や講談などに多大なる影響をうけてしまったのはあたりまえ。いまだにその世界からぬけだせないでいる。


さて引き受けたものの、「さあ悪役!」「いざ悪役!」ととりかかろうとして、はたと考えてしまった。悪役ってなんだろう。「悪人」「悪者」「悪漢」「悪玉」「悪党」……どれにあたるのだろう。
悪人というのは、存在そのものが悪である。どうしようもない人間のようだから、その死を子どもが悲しむわけがない。霧の小次郎は、けっして悪人ではなかった。「悪玉」は芝居や小説で悪の役を担った者で、「悪者」は、ある場面、事件、筋書きなどのなかで悪いとされる者とある。
頭の中で使いわけしてみると、歴史上の人物やら物語のなかでの人物やらが入り混じってぞろぞろと浮かんできた。フィクションの悪役は、作者が悪役の位置づけをして登場させるから、わかりやすい。歴史のある時代ごとに生まれた人物たちはまたちがって、支配者の側から悪とされたり、後世になって悪役とされたりしている。当然のように、勝者が善で敗者は悪となるが、敗者のもつドラマのほうが奥深く魅力的なことが多い。
「善のなかに悪があり、悪のなかに善がある」といったのは、たしか池波正太郎だ。江戸時代の賄賂政治家として、悪役で有名な老中・田沼意次は、『剣各商売』では、いい政治家、娘思いの父親として描かれているのだ。
ようし、改めて自分が考える悪役を見つけだして書いてみよう!
おもしろい仕事になりそうだ! 

(本木洋子)