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第1回


ふたつのアリスの物語
ルイス・キャロルは1865年に『不思議の国のアリス』、1871年に『鏡の国のアリス』の、ふたつのアリスの物語を出版した。あいだに6年の月日がすぎているが、作品上は半年が経過したことになっている。不思議の国は、夏の川辺での戸外の物語、鏡の国は、11月の室内の暖炉のマントルピースの鏡からはじまる物語で、鏡の国でアリスは、ハンプティー・ダンプティーに年齢を聞かれて、7歳と半分だと答えているからだ。
ネコの目からよく見ると、このふたつの物語は、モデルともなり最初の聞き手となった(ただし、鏡の国のほうは、アリス・リデルはもう実際の聞き手ではなかった)アリス・リデルの飼いネコが、発端から大きな役割を果たしていることがわかる。

ダイナはコウモリの夢を見るか
ウサギのあとを追いかけて、後先も考えずに穴の中にとびこんだアリスは、どこにつづくともわからぬ縦穴を落ちながら、ついつい暇になって(ふつう、落下時に暇になることなどないのだが)おうちにおいてきたネコのダイナのことが気になってくる。ネコと暮らしている人ならわかるはずだ。外に出ているとき、ふとおいてきたタビィとか、タマとか、ミケのことが心配でたまらなくなったり、会いたくてたまらなくなったりすることがある。
そしてアリスは、あの有名な「ネコはコウモリを食べるかしら」の独白をくりかえすあまり、「コウモリはネコをたべるかしら」といってしまい、すでにここからさかしまとことば遊びの不思議の国のはじまりを予測させる。CatとBat。CとBの文字をひとつ置き換えるだけで、恐怖のネコ喰いオオコウモリが出現してしまうということばでできた不思議の国。これがアリスの第一の異世界の性質を端的に表している。
ところが、ここでひとつ、ひっかかるところがある。アリスはダイナの心配をして、ちゃんとミルクをもらっているかしら(ちなみにネコに人間用のミルクをやってはいけない)、寂しがってはいないかしらと、さんざん気にかけるのだが、家族のことはいっさい気にならないらしい。このあとも、アリスはひんぱんにダイナのことを口にして、不思議の国の動物たちを脅かしてしまうことになるのだが、奇妙なことに、ひとことも「家に帰りたい」といわない。お母さんもお父さんも恋しくないらしい。

19世紀の子ども部屋事情
このことは、『鏡の国』でも通底している。鏡の国に入るまえ、アリスは暖炉のまえのひじかけいすで丸くなって、いたずらな黒い子ネコ、キティに話しかけている。おとなしくママネコになめてもらっている白い子ネコ、スノー・ドロップとともに、2匹はダイナの子ネコであり、これも半年の経過を表している。こちらの物語でも、鏡の国に入ったアリスは、「家に帰りたい」どころか、喜んでおかしな国のチェスゲームに参加し、思い出すのは乳母と姉妹のことだけ。アリスの両親はいったい何者?
しかし、これは現代の読者がいだく疑問であって、19世紀当初の中流家庭の子どもが読み手なら、ある意味当然のことであった。アリス・リデルはオックスフォード大学クライストチャーチの学寮長の娘、上中流家庭のお嬢さんである。とすると、彼女は姉妹と兄と、子ども部屋で1日を暮らし、乳母と家庭教師がその相手をしていたにちがいない。遊ぶ相手は兄弟姉妹、そしてペット。世話をしてくれるのは、子ども部屋の雇われ人。外にいくときは、その乳母なり家庭教師なりに連れられてのお散歩がせいぜいで、朝起きたときから夜寝るまで、食事すらも子ども部屋でおとなとは別にとる。お風呂も子ども部屋で行水。
父や母に会うのは、おとなのディナータイムのデザートの時間、乳母に顔を洗われ、着替えさせられて、階下に降りていくときだけ。たまにお母さまは子ども部屋に足を運び、その美しい姿を見せたかもしれない、お父さまにいたっては雲の上の存在。少なくとも、同時代の児童文学作家、メアリー・モールズワースはそう述べているし、ピーター・ラビットの作者、ビアトリクス・ポッターの少女時代も似たようなものだった。
物語のなかのアリスは、退屈な日常生活から逃れてせいせいしているわけで、おうちになんか未練はない。けど、大事なにゃんこは恋しいのである。当時、子どもにペットを飼わせることは情操教育上好ましいと考えられており、イヌ、ネコ、モルモットなどのげっ歯類、そして蚕(!)などが推奨されていた。イヌをつき従わせた男の子、ネコを抱いた女の子の肖像画がたくさん残されている。イヌとネコに相性上、ジェンダー割りふりが見られるのは偶然ではない。イヌは狩りに、ネコはおうちで、という連想があるからだろう。

異世界のなかのリアル動物
ところで、アリスの物語にもどると、不思議の国には1匹だけ、口をきく奇妙な動物ではなく現実のリアルな動物が登場する。イモムシのいる森に入ろうとしたアリスが、遭遇したイヌである。アリスを見るなり、このイヌはキャンキャン鳴いてアリスにじゃれかかろうとする。この子イヌはほかの不思議の国の動物とちがってことばも通じないし、リアルなイヌの性質しかもっておらず、身長たったの6センチだったアリスは、あの手この手であやし、ごまかし、手近の棒でじゃらしてなんとか難を逃れる。
コウモリを食べるかもしれないダイナが、もし万一アリスとともに不思議の国にきていたとしたら、コーカスレースをいっしょにやった不思議の国の動物たちに襲いかかっていたかもしれない。このイヌがアリスにとっての脅威だったように、ダイナもまた、不思議の国にとって、リアル動物として、とんでもない脅威だったことは想像に難くない。だから、鳥たちも口々に口実をでっちあげて水辺を去ってしまったのだ。

キティとスノー・ドロップは鏡の国の夢を見るのか
一方、鏡のむこうの異世界にはこのような現実的な生物はいっさい出てこないが、物語の最後に、アリスが赤の女王を抱いてゆすぶっていると、だんだんその姿がキティに変わっていく。アリスは思う、キティが赤の女王さまなら、いい子のスノー・ドロップが白の女王だったのだわ。そしてダイナは? ハンプティー・ダンプティーだったのかしら? でもこれはあんまり確かじゃないから、お友だちにはいわないほうがいいかも。
しかし、それがほんとうなら、鏡の国で、アリスにことばの本質を教え、ガイド役をする重要なキャラクターはネコだったということになる。

大事な大事なネコたちの役割
物語中でもっとも存在感というか顔のでかいネコのことを忘れるところだった。不思議の国のチェシャネコである。いつもにやにや笑っている人のことを英語で「チェシャネコのようににやにや笑う」というが、これはもう理由を失った決まり文句である。一説には、チェシャ地方のチーズににやにや笑っているネコの型が押されているためできた慣用句だといわれている。ルイス・キャロルの不思議な人物造形には、この意味を失った慣用句を生き返らせるというやり方があり、「マッド・ハッタ―」とか「三月ウサギ」もそうなのだが、こうしてことばから生まれてきたチェシャネコは、ことばでしかできない行動をとることができ、「ネコのいないにやにや笑い(grin without cat)」を残して消えていく。「にやにや笑いをしないネコ(cat without grin)」ならふつうにいるけど、「ネコのいないにやにや笑い」なんてありえない! という人へ。without という前置詞の前後の名詞を入れ替えただけだから、この現象はことば上は文法的に正しいはずなのだ。文句ある?
このチェシャネコは、アリスに不思議の国の本質──「ここではみんな狂ってるんだよ」──を教え、必然的にアリスが次に訪ねていかねばならない道──帽子屋と三月ウサギのお茶会──を教えてくれた導き手であり、さらにはハートの女王のとんでもクリケット大会にも現れて、ぶっそうな女王に一撃を食らわせる(首がないから首を切れといってもムリ!)たいへん重要なキャラクターなのである。
というわけで、不思議の国の導入にはダイナが必要で、ダイナは不思議の国をぶっこわす可能性もある。鏡の国は2匹の子ネコのいたずらからはじまり、キティは鏡の国のなかでもっとも権力をもつ女王だったのかも。ことばでできたチェシャネコは、不思議の国の歩き方をアリスに教え、ことばのありかたを教えるハンプティー・ダンプティーとともに、キャロルの描く異世界の本質を体現する。

かくして、これらネコたちはアリスの物語に不可欠必須の登場人物なのです。
 

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『不思議の国のアリス』
ルイス・キャロル
脇明子/訳
岩波少年文庫

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『鏡の国のアリス』
ルイス・キャロル
脇明子/訳
岩波少年文庫