第2回

モンゴメリはネコが大好き
『赤毛のアン』のシリーズの作者として知られるルーシー・モード・モンゴメリは、有名なネコ好きだった。娘時代からずっと、雑誌の切り抜きや手紙、カード、押し花などを貼りつけてつくっていたスクラップブックには、ネコの写真や絵はもちろんのこと、自分が可愛がっていたネコの毛まで貼りつけられているくらいである。彼女の描く作品においても、パット、ジェーン、エミリー、ストーリーガールたちはこぞって愛猫家である。
ところが、代表作とされている〈アン〉シリーズにおいては、ネコが出てこない。というより、グリーンゲイブルスにはネコがいないのだ。シリーズも後半になり、アンが大学へ入学して下宿しはじめ、結婚して自分の家をもつようになると、ネコたちはやおら登場し、ラスティだの、ジキルとハイドだの、ヨセフだの、その特徴を捉えたユニークな名前をつけられて闊歩しはじめる。
あまりにぼろぼろでみすぼらしいため、ラスティ(錆だらけ)。二重人格なので、ジキルとハイド、あまりにいろいろな色が混じっているので、旧約聖書のアブラハムに愛され、色とりどりのマントを与えられた末息子にちなんでヨセフ。
前回の、イギリスの都会に暮らすアリスの周辺とはちがい、20世紀はじめのカナダの農村では、ネコはペットでもあるが、納屋の重要なネズミ退治用の家畜でもある。きれい好きのマリラは、きっとネコが家に入ることをきらったのであろう。だからグリーンゲイブルスという家には、ペットとしてのネコはいなかったのだ。

〈エミリー〉シリーズの魅力
エミリーが孤児となってひきとられた先の、ニュームーン農場でも、ネコは納屋にいるもので、家に出入りするペットではなかった。両親を亡くし、母方の年老いた伯母たちが暮らす家にひきとられたエミリーは、モンゴメリの自伝的要素を多く兼ね備えたヒロインであるといわれており、幼いときから詩人に、作家になる野望を抱いている。彼女が12歳から24歳になるまでの三部作『可愛いエミリー』『エミリーはのぼる』『エミリーの求めるもの』は、その魂の軌跡であり、じつは〈アン〉シリーズよりも深い内面と人間らしさ、葛藤と苦悩、喜びとひらめきに満ちた、小説家を目指す女性の半生が描かれている。そしてエミリーを、時には慰め、時には困らせ、しかし、生き方を示し、導いてくれるのはネコたちであり、またエミリー自身が完璧にネコ気質であるということも、筆者の〈エミリー〉シリーズびいきに大きく寄与しているといえよう。

「ネコ」としてのヒロイン
色白というよりは青ざめた肌、黒い髪と紫がかった灰色の瞳をもつ繊細な少女エミリーは、妖精のような先のとがった耳をしていて、これがまさに現代でいうところの「ネコ耳」なのだが、彼女を愛しながら先に逝った父は、エミリーを「ネコちゃん」とか「エルフキン(妖精さん)」と呼んでいた。ニュームーン農場に暮らすおとなたちのなかで、唯一エミリーの詩心を理解する従兄のジミーさんも、彼女を「子ネコちゃん」と呼んでいる。群れになじまず、孤独を好み、人に媚びることを知らない、プライドの高いエミリーはどう見てもネコ気質だ。
伝統と家風、スコットランド系の血筋を誇るマレー一家。小説などというものを作り話として嫌うピューリタン気質のうえに、女が働くことを認めないヴィクトリア朝的価値観を温存している一族のなかで、ひとり果敢に筆でもって自立しようともがくエミリー。ネコとしての芸術家は、結局は自分の歩きたい道を歩くしかない。彼女のプライドの高さは、時には人をして彼女を「あの猫娘」と呼ばしめる。
エミリー自身、ときどき気分はネコである。「思う存分暴れ回り、好きなだけ癇癪を起こしたくなる、しかし今夜はそうではない。今夜は炉辺の敷物の上のネコのように満足している。やり方さえ知っていればゴロゴロ喉を鳴らしたいくらいだ」(『エミリーはのぼる』324-5)こともあれば、「いたくもない膝の上にしっかりと置かれて、やさしく撫でられているネコのような気がした」(同333)りする。気難しく、皮肉屋のディーン・プリーストすら、「いかめしい、よい香りの漂う古い庭園でエミリーとネコたちが織りなすきれいな絵にまさるものはない」(同122)と感じずにはいられない。

エミリーをめぐるネコの系譜
エミリーの友としてつれ添うネコたちは、じつはそう多くはない。父親の家からニュームーンへひきとられるとき、ネコを連れていくことを頑として反対したエリザベス伯母は、ジミーさんにたしなめられて、1匹だけなら、と妥協した。しかし、大好きな2匹のなかから片方を選ぶことの辛さを、伯母はわかってくれなかった。悩みぬいたエミリーは、ほんとうはいちばん好きなマイクを置いていき、ソーシー・ソールという喧嘩好きで気の強いメスネコを連れていくことを選んだ。だれにも愛されるマイクなら、置いていっても女中のエレンも可愛がってくれるだろうと思ったからだ。幼心のなんという自己犠牲。
そのソーシー・ソールは、あっというまにニュームーン農場の納屋のネコどもをひれ伏させてヌシにのしあがり、しばらくするとエミリーのペットというよりも、すっかり納屋ネコになってしまう。そんなとき、行商にくるケリーじいさんがエミリーにくれた子ネコが、マイク二世である。エリザベス伯母は、マイク二世を池に捨ててくるように命じ、飼うことを許さなかった。しかし、煩悶するエミリーは、夜中、池でおぼれかけている子ネコの幻を見て助けに駆けつけ、伯母をたじたじとさせる子どもらしくない圧倒的な目力で、意を通してしまう。この子ネコはそれからしばらくエミリーの可愛い伴侶であった。
しかし、農場はときとしてネコにとって残酷なところにもなる。マイク二世はどうやら、なんらかの農薬で中毒死してしまい、あまりの悲しみに泣きむせぶエミリーを、伯母は父が死んだときも泣かなかったくせに、とあきれかえる。
マイク二世の後を埋め合わせしてくれたのは、ソーシー・ソールの生んだ灰色の子ネコだった。親友のイルゼとエミリーは、まるで喧嘩をしている2匹の子ネコの如く、その子ネコの所有権を争ってとっ組み合いをするが、そんなことではまた溺れさせてしまうと叱られて、仲直りし、イルゼは子ネコの命名権を得た。ダッフォディル(ラッパ水仙)という名前は、エミリーにとっては気に入ったものではなかったが、縮めてダッフィ。この子はそのあとずっとエミリーの傍にいる。

ネコにまつわる名言
シリーズ3冊には、いたるところネコに関するエミリーの、またはその他の人が口にする名言に満ちている。
ネコの、なめらかで、つやつやしていて、柔らかでしかもふわふわしているようすをひとことでいいあらわすことばがないというので、エミリーがつくった造語が「スミー」。しかも、このことばには、それ以外にもネコの何とも形容しがたい雰囲気もふくまれているのだという。そういえばもう、どこのタマにもミケにもタビィにも、スミーなネコちゃんといわざるを得ないではないか。
エミリーと親友になるカッシディ神父は、自分がネコを飼っているのではなく、黒ネコのブイが自分を飼っているのだと、ゆううつそうにうめく。そうそう、よくある話である。イヌが人を飼うことはないが、たいていのネコは人を飼っている。気がついていない人がいるだけだ。しかもこの黒ネコ、ブイという名前をつけられたのではなく、自分で自分をそう呼んでいるのだという。ネコは主体的な生きものなのだ。
エミリーの父の友人だったディーンも、ネコの本質をよく見抜いている。ネコはきちょうめんすぎ、要求が多すぎる、イヌとは違い、崇拝されることを望んでいるのだ、と。おっしゃるとおりです、ネコに飼われている人はみな同意することだろう。エミリーだってこれはわきまえていて、従兄のアンドルーが「可愛いネコちゃんや」などと猫なで声を出すと、ネコに話しかけたり、ネコのことを話したりする時には、尊敬の念が必要だと注意する。そういえば筆者の家のネコも、自分が話題の中心であるときは澄ましているが、話がそれると注目を引こうとでしゃばってくる。
満足しきって丸くなったネコがいなければ家は「ホーム」にはならない。ネコはこちらの味方をしてくれているときは、それは頼もしい後援者だ。ネコがその本性を現すのは、黄昏時、「ネコの明かり」といわれる時刻。神秘的で、知恵者で、魔除け。
ほんとうにネコを知り、愛したエミリー、そしてモンゴメリならではの見解といえるだろう。

エミリーの選択
ジャーナリストとして成功をおさめたミス・ロイアルから、ニューヨークに招待され、雑誌社勤務を勧められたエミリーは逡巡する。申し出を受けることは、作家として成功するもっとも近道であるはずだった。しかし彼女は、思い悩んだあげく、イヌを偏愛するミス・ロイアルの誘いを断り、(「私はネコのほうが好きです」)自らの愛し、所属していると感じる土地にとどまることを選ぶ。自分でもいっているとおり、エミリーはひとりで気ままに歩き、好きなところでしっぽを振る、キプリングの「一人で歩いて行ったネコ」の眷属なのである。
その彼女が、自分の結婚の相手としては、なかなかうまく自分の気持ちに忠実になれず、紆余曲折を繰り返すのは、亡き父親を慕いすぎたためか、それともネコにくらべれば人間の伴侶は二の次だったのか……。まあその話題は別の話になるので、ここでやめておこう。











『可愛いエミリー』
ルーシー・モード・モンゴメリ
村岡花子/訳
新潮文庫




『エミリーはのぼる』
ルーシー・モード・モンゴメリ
村岡花子/訳
新潮文庫



『エミリーの求めるもの』
ルーシー・モード・モンゴメリ
村岡花子/訳
新潮文庫