第10回

月姫マリア
父母を失った13歳のマリアは、家庭教師のヘリオトロープ先生と犬のウィギンズと共に馬車に揺られていた。見知らぬ親戚に引き取られることとなり、マリアが、ロンドンでの暮らしを後に、コーンウォールのシルバリーデュー村のムーンエーカー館に向かうところから、物語は始まる。時代設定はヴィクトリア朝くらいだろうか。
小柄ではあるが毅然として美しく、行動力に満ちた少女マリア、彼女に手を貸す少年ロビン。そして、ロビンの母、ラヴデイと、マリアのらいらく磊落ないとこのベンジャミン卿、女嫌いの料理人、記憶喪失の老牧師、消化不良に悩むヘリオトロープ先生の秘められた過去の関係、出没する密猟者たちの首領コック・ド・ノアールの正体が明らかになり、もつれた人間関係が解きほどかれる。太陽の男にとついだ月姫が持参した高価な真珠がもたらした悲劇が、また繰り返されようとした時、今の代の月姫であることが明らかになったマリアは、先祖が犯した過ちを償い、月と太陽のメリーウェザー家をひとつにまとめて、谷間の村に愛と平和を取り戻すことに成功する。

美しい海辺、なだらかな丘陵、暗く茂る松林、丘の上の教会。古くからの伝説が生きているコーンウォール地方の、ゼラニウムが咲き誇る古い館、という絵のような風景の中で展開する、このロマンティックな物語は多くの人を魅了してきた。シルバリーデュー銀の露、ムーンエーカー月のエーカー、ラヴデイ太陽を愛す、メリーウェザーうららかな天気、コック・ド・ノアール黒の雄鶏、ヘリオトロープキダチルリソウなど名前も美しい。近年では、<ハリー・ポッター>シリーズの作者、JK・ローリングが、愛読書であったと述べたため、また人気がリバイバルし、2008年には映画化もされた。『ムーンプリンセス 秘密の館とまぼろしの白馬』というのが映画のタイトルである。
映画では牧師が登場せず、ヘリオトロープ先生の設定もやや違っているし、争いのもととなった真珠の首飾りの所有権についても、現代的な改変が施されているが、映像化された風景はさほど期待を裏切らなかった。だが、残念なことに、登場するユニークな動物たちの中で、ことさらに個性が光るネコのザカライアが、映画にはまったく現れなかった。

個性的な動物たち
マリアを取り巻くキャラクターにおいて、動物たちは、人間たち以上に重要で個性的である。代々の月姫が現れると必ず、姿を現すといわれるライオンのロルフ。マリアを怖がらせないために、ベンジャミン卿は初め、大きなイヌだと偽っていたが、どうもこのライオンは、白い一角獣と共に、紋章によく描かれるライオン、月姫の守り役であるらしい。密猟者によってわなにかけられたところをマリアが救うノウサギのシリーナは、気高く人に慣れない動物でありながら、マリアにだけは心を許す。伯爵から与えられ、マリアに従順に尽くす馬のペリウィンクル。ツルニチニチソウを意味する名前であるが、この花を村の人々は「地を走る喜び」と呼んでいるという。マリアがロンドンから連れてきた愛玩犬のウィギンズは、甘ったれで食いしん坊でちゃっかり屋の坊ちゃんで、ほかの仲間に比べればずいぶん飼いならされた存在だが、マリアのお供には欠かせない。

高貴なネコ ザラカイア
しかし、ムーンエーカー館に到着してから、マリアは、すぐには、ネコのザカライアと料理人のマーマデュークには出会わなかった。実は、ほかの登場人物と違ってこの二人は気難しく、プライドが高く、許しを得てからでないと近づきにはなれない存在だ。マリアは、しばらく自分から好奇心のままに押しかけることなく我慢する、という試練を乗り越えてから初めて、彼らへのアクセスを許される。その我慢ということが、マリアを立派な月姫と認められるひとつの証となったのである。
やがて招かれて台所に初めて入ったマリアは、堂々たる黒いネコのザカライアに出会う。
しゅすのようにつややかに光る黒い毛並み、蛇のように長くふといしっぽ、エメラルド・グリーンのギラギラ光る眼は、威圧するようで、気が向くまでは構われるのが嫌い。礼を尽くして接して初めて、ザカライアはマリアに、頭をなでることを許す。台所で働く有能なコック、マーマデュークとザカライアは気の合う仲間であり、この二人が意思を疎通し、情報を伝達しあうのは、ザカライアが灰にしっぽでメッセージを書くという手段を通じてなのである。
マーマデュークによると、ザカライアの先祖は、古代エジプトのファラオに神としてあがめられていた高貴な血筋であり、その証拠に、青い血が流れている、という。青い血(ブルー・ブラッド)というのは、高貴な血を引くということの比喩的表現なのだが、ザカライアが、牛肉ともつに興味を示しすぎて包丁に鼻を接近させ、その結果起こった災難のため、そのことが明らかになったと、まことしやかに語るマーマデュークのもったいぶりもおかしい。
マーマデュークの作るコーンウォール風のお料理やケーキの数々はたいへん魅力的なのだが、この人物に認められ、その秘密を知ることが、メリーウェザー家の秘密を解くことにつながってくるので、マリアがこの台所に招待されたのは大きな出来事であった。
この物語はファンタジーではあるが、特に動物が口をきいたり、人間的にふるまったりということはない。しかし、それぞれの動物たちに「月姫」であることを認められることによって、マリアは自分に課せられた役割を理解していく。動物の言葉、情報を絵文字にして人間に伝えるザカライアは、ここに登場する動物の中でも、仲介役として重要な立ち位置にある。飼われている動物でありながら孤独を好み、知られずに行動し、気ままに暮らす―ネコならではの気質を生かした設定と言えよう。

このように高貴で、孤高で、賢く、エジプトの神の子孫であるというザカライア、そんじょそこらのネコでは、映画での役も務まらなかったため、出番が泣く泣くカットされた、実はそういうことだったのだろうか?

ちなみに映画でのマリアは、その前の年、『黄金の羅針盤』でライラ役を演じたダコタ・ブルー・リチャーズである。日本では劇場公開されなかったが、日本語版DVDは発売されている。映画の中で、ベンジャミン卿とマリアが連弾をするピアノ曲が何なのか、知っている人がいたら教えてほしい。







『まぼろしの白馬』
 エリザベス・グージ
 石井桃子/訳
 岩波少年文庫