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第2回


二、鳥獣虫魚の譜(上)

 青酸カリを境に埋める

それにしても、昆虫採集とはなにか、昆虫採集家とはだれか、という問いはどうにもひと筋縄ではいかない。なにかしら謎めいた、しかし滑稽な雰囲気を漂わせている。採集マニアたちの共同体の外ではなんの価値も認められていない、沙漠の昆虫であるハンミョウ属を追いもとめて、やがてこの世の地平から姿を没してしまう存在など、いかにも尋常ではない。だからこそ、所有欲の激しさや極端な排他性、さらに盗癖や男色まで疑われるが、むろん根拠もなく着せられた汚名でしかない。とはいえ、新種の発見という手柄にたいする、どこかひねくれた小市民的でもある野心には、愛される無邪気さだけはかけらも感じられない。
気に懸かることがある。ほかでもない、昆虫採集が濃密にまといつかせている死の匂いだ。たとえば、「採集マニアのなかには、採集自体よりも、殺虫瓶のなかの青酸カリに魅せられて、どうしても足を洗うことが出来なくなった者さえいるそうだ」[1] とあったが、わざとらしい伝聞調で、思わせぶりで、よくわからない。青酸カリに魅せられるとは、足を洗うことができないとは、なにを意味しているのか。
ウィキペディアの「昆虫採集」の項目が比較的に詳しい。その「捕獲後の処理」と題された一節には、以下のように見える。まず、捕まえた昆虫を標本にするには、形態を破損しないように殺すことが必要である、と。そのために、殺虫管とか毒瓶とか呼ばれる容器を使う。ガラス製で底にくびれた部屋があり、そこに脱脂綿などを押し込んで酢酸エチルのような薬品を吸わせておき、コルク栓で密封する。そこに捕まえた虫を次々に放り込んでゆくのだ、という。気になる一文があった。すなわち、「かつてはシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)を少量の酢酸や木屑(木材はギ酸や酢酸を微量に発生する)とともに瓶の底に仕込んで石膏で封じ、石膏の壁を通じて徐々に微量のシアン化水素ガスが発生するようにしたものもよく用いられた」という。いまでは一般の入手が困難になり、大学などの研究機関以外ではまれにしか用いられないらしい。ネットの関連サイトのなかには、青酸カリの使用は戦前までのことだとする記事も見かけるが、確認はできない。
幼年期を武蔵野で過ごしたわたしは、雑木林で虫捕りをするのが大好きだった。カブトムシやクワガタムシを主に狙った。しかし、昆虫採集というのはどうやら、そうした少年が捕まえた虫を木箱に入れて飼い、生きたまま観察するといったこととは、まるで異なった行為であるようだ。それは、捕えた昆虫を殺して、その死骸を整えて標本箱にきれいに収めることであるからだ。
だから、そこでは虫たちの死が、いや、人が虫の命を奪うことが欠かしえぬ前提となっている。青酸カリが活躍する、それが殺害の小道具であった時代が、たいして遠くはない過去に存在したのである。青酸カリが禁止されたのは、虫の命への配慮といったものではなく、扱う人間にたいして死をもたらす危険な毒物であったからであろう。ただ、人にたいする危険が回避ないし緩和される、ほかの薬物に置き換えられてきただけのことだ。その意味合いでは、昆虫と殺虫瓶と青酸カリとの関係は、昆虫採集をめぐる原風景のひと齣として揺るがぬ象徴性を帯びている。
しかも、それはこの作品全体にある特有の影を曳いている。主人公の男は青酸カリを手放すことなく、どこか命綱のごとく、それに縛られているように見えるのだ。
男はたしかに、殺虫瓶と青酸カリを持っていた。砂の穴に降り立ってしばらくして、殺虫瓶のなかから、虫を取り出して、固くならないうちにピンで留めて、足の形だけでもそろえる場面があった[4]。女を襲って縛り、ムラの連中と交渉する計画に踏みだす前に、男は大事な採集道具などを戸口のわきにまとめておいた[14]。そこには殺虫瓶も入っていたはずだ。それから、砂掻きの夜の終わりに、鴉の鳴き声がして、四羽の鴉が低く滑るように飛んでいき、広げた翼の先が暗緑色に輝いた。そのとき、男はなぜか、殺虫瓶のなかの青酸カリを思いだすのである。そして、「そうだ、忘れないうちに、別の容器にうつして、ビニールでくるんでおこう。湿気にあうと、あいつはすぐにどろどろに融けてしまう」[21]と考える。
砂の穴からの逃亡劇のなかで、男がずんぐりした赤犬と対峙しながら、こんなことをふっと呟く場面がある。「そうだ、食い物と言えば、青酸カリを忘れて来てしまったっけ……まあいい、女も、あの隠し場所には、まさか気がつくまい……」[24]と。男は実際に、殺虫瓶から青酸カリを取りだして、どこかに隠したのか。そもそも、隠す場面そのものが見当たらない。それを描けば、女に秘密が漏れるとでもいうように。それにしても、食い物と青酸カリとは、いかなる連想の回路で繋がれるのか。そして、それはいったい、砂の穴の家のどこに隠されたのか。
物語の終末に近く、破滅的な見世物ショーが唐突にはじまる、ほんの手前であった。逃亡が手痛い失敗に終わって、男はもはや、「逃げようとしても、幹につながれて、逃げられず、ひらひら身もだえている葉っぱの群」の一枚と化している。ある日、男は小便をしながら、穴の縁にかかったひと抱えもありそうな灰白色の月を正面に眺めて、突然のように激しい悪寒に襲われる。

  • ふるえを通して、月の表面から、彼は何かを連想しかけている。まだらに粗い粉をふいた、かさぶたのような手ざわり……ひからびた安物の石鹼……というよりはむしろ、錆びたアルミの弁当箱……それからさらに、焦点が近づいて、そこに思いがけない像を結ぶのだ。白い髑髏……万国共通の標識である、毒の紋章……殺虫瓶の底の、粉をふいた白い錠剤……そう言われてみると、風化した青酸カリの錠剤と月の表面とは、なるほど肌合いがよく似通っていた。あの瓶は、まだあのまま、入口に近いあがりがまちの下あたりに、埋めたままだったっけ…… [30]


『砂の女』一編のなかで、妙に心惹かれる場面のひとつである。このあと、男の心臓は「割れたピンポン玉のように」ぎくしゃくと弾みはじめて、ついには「あんな不吉なもの」を思いだしている。「連想するものにこと欠いて」と、忌々しげでもある。青酸カリの錠剤を底に沈めた殺虫瓶という禍々しきものが、忘却のかなたから蘇ってくる。どうやら、まだ青酸カリは瓶のなかだ。月の表面…ひからびた石鹸…錆びたアルミの弁当箱…白い髑髏…毒の紋章…殺虫瓶の底の白い錠剤と、連想は奔放に、しかし、まっしぐらに転がってゆく。そうして、風化して白い粉をふいた青酸カリの錠剤と月の表面とは、肌合いがよく似ている、という跡づけの了解がやって来る。しかし、月と青酸カリとはきっと、すでにして死を仲立ちにして固く結ばれていたはずだ。
それにしても、なぜ、あの殺虫瓶は、入口に近いあがりがまちの下に埋められたのか。上がり框(あがりがまち)とは、玄関など、家の上がり口の縁に渡してある横木のことだ。そこはいわば、日本家屋においては、靴を脱いで室内に上がるときの、内と外を分かち/繋げる象徴的な境界であった。その上がり框の下の砂地を掘って、殺虫瓶は、それゆえ青酸カリは埋められていたのだ。偶然の、たいした意味もなく選ばれた隠し場所であったのか。
そうは思えない。境界の無意識によって、きっと、その、入口に近い上がり框の下という特別な場所へと導かれたのである。たとえば、縄文時代の遺跡からは、竪穴住居の入り口に近い土中から埋甕(うめがめ)が出土する。底に穴のあいた土器に、小さな石とともに、幼くして亡くなった子どもを納めて埋める習俗があったのだ。民俗社会においても、幼な子の遺体や胎盤がしばしば埋められたのが、家の入り口の土間の下だった。家屋の構造がさまざまであるから、上がり框そのものではないが、そうした家の内と外を分かち/繋げる境界領域にたいして、生死をめぐる象徴的な意味合いが託されてきたのである。そこはひそかに、死の匂いを漂わせる場所であった。青酸カリの錠剤が入った殺虫瓶が埋められ、隠されるためには、これ以上にふさわしい場所はなかったにちがいない。
このすこしあとに、男が洩らした、「たまには、その辺を、散歩でもさせてもらえないものかねえ」という言葉をめぐって、女とのあいだに不毛なやり取りが交わされる。男はいきり立つが、女は観念した犬のようにうなだれるばかりだ。その場面にそっと、「男が、目の前で青酸カリを飲みかけても、おそらく同じようにして、黙って見過ごしてしまうにちがいない」という一文が挟みこまれていた。砂の穴に監禁された男は、青酸カリを隠し持つことによって、自死の自由だけはなんとか確保していたのである。しかし、それも監禁の長期化によって、風化し白い粉を吹くにいたって、効用を失いかけていたということであったか。
青酸カリを埋める、という行為には、幾重にも象徴性が感じられる。死の匂いが漂うが、それすらも風化する。このあとに凄惨な見世物ショーがやって来るのは、むろん偶然ではありえない。それはあらためて触れることになる。
はじまりの一節に、「採集マニアのなかには、採集自体よりも、殺虫瓶のなかの青酸カリに魅せられて、どうしても足を洗うことが出来なくなった者さえいるそうだ」とあったことを思いだす。そんな都市伝説のようなものが存在するのか。さだめし、主人公の男など、青酸カリのまといつかせる死の匂い、生きものの命を奪うことへの誘惑といったものに魅せられている、採集マニアの一人であったのか。
そういえば、女性にも昆虫採集マニアはいるのだろうか。青酸カリによる呪縛は、あるいは男の欲望と深くかかわるのかもしれない、と思う。妄想のように書きつけておく。思えば、女はいつでも、囲炉裏を隔てたあがりがまちのそばで、頭から洗いざらしの浴衣をかぶり、裸のままに、膝をかかえて丸くなって眠っていたのではなかったか[12]。女の淫らな裸体の、まさにその下に、女には知られることなく、殺虫瓶と青酸カリが埋められていたことになる。性と死とがつかの間の邂逅を果たしていたのかもしれない。

 鳥獣虫魚の氾濫のもとで

いたるところに、鳥獣虫魚の喩が氾濫しており、文化から野性への零落や退行というテーマが、『砂の女』という作品全体を覆い尽くしている通奏低音であることが示唆されている。実在としての鳥獣虫魚/喩としての鳥獣虫魚が混在しながら、次から次へと姿を現わし、消えてゆく。すくなくとも、百十数カ所の場面に鳥獣虫魚が見いだされる。
まず、現実世界のなかでは、意外なほどに実体としての鳥獣虫魚との遭遇はかぎられたものにすぎない。「沙漠にも花が咲き、虫やけものが住んでいる」[2]とはいうものの、生き物の影ひとつなかった[3]。男は砂地に棲む昆虫を採集するために、この砂丘のムラにやって来たが、昆虫の数はきわめてすくなかった。収穫らしい収穫もなかったのだ。いま、言葉やイメージとして想起されるだけの鳥獣虫魚はおくとして、見たり聞いたり触れたりといったことが可能な、それなりに実体をもった鳥獣虫魚から取りあげてみたい。
まず、鳥である。ニワトリの鳴く声が、砂の穴にも届く[7,11]。むろん、砂のムラのどこかの家で飼われているニワトリだ。くりかえし登場するのが、鴉である。鳴き声がする。四羽の鴉が海岸と並行に、低く滑るように飛んでゆく、その広げた翼の先が暗緑色に輝いた[21]。男は《希望》と名づけた捕獲装置で、鴉を狙っているが、鳴き声だけで、いまだ捕まらない[28]。野鼠を見つけた(らしい)夜の鳥が、いやな声で仲間を呼んでいる[22]とあるが、その種類は特定できない。終わりに近く、三日間にわたって西から東へと飛んでいった大きな白い鳥は、渡り鳥の白鳥であったか[31]。この地方ではよく見かけるものだ。それを、穴の底から見上げたのである。そして、その明くる日、女は下半身を血に染めて、病院へと運ばれていったのだ。
獣は犬だけだ。穴の底では、その遠吠えを聞くことしかなかった[13]。穴から逃亡したあとでは、男に執拗にからんでくる。豚のようにずんぐりした赤犬がいた[24]。敵意をこめて唸り、吠えながら、白い牙の群となって追ってくる犬たちがいた[25]。犬との格闘の場面があった[26]。これらの犬たちはどうやら、放し飼いの状態にあり、ムラに侵入してくる不審者を摘発する役割を託されているようだ。虫は採集した数種の昆虫のほかには、蝿[3,12]や蜘蛛[3]、ノミの大群[4]、蜘蛛と蛾[27]など、ごくかぎられたものだ。魚となると、干した魚しか見いだされない[10,23,28]。いや、はじめての晩の食事には、魚の煮つけと貝の吸い物がご馳走として出されたのだった[4]。
蜘蛛と蛾のからみあう情景が、比較的に詳しく描かれた場面があった。

  • 所在ないまま、ランプをつけて、ぼんやりタバコをくゆらせていると、ずんぐりした、しかし敏捷そうな蜘蛛が一匹、ランプのまわりを、ぐるぐる廻りはじめた。蛾ならともかく、趨光性をもった蜘蛛とは珍らしい。タバコの火で、焼き殺しかけたのを、ふと思いとどまる。蜘蛛は、十五センチか、二十センチばかりの半径で、時計の秒針のように、正確にまわりつづけていた。あるいは、単なる趨光性ではないのかもしれない。期待するものがあって、見まもるうちに、やがて一匹のナシケンモンが迷い込んで来てくれた。二度、三度、天井に大きく影をひらめかせ、ランプのほやに衝突すると、取手の金具にとまって、それっきり動かなくなってしまった。下司な外見に似合わず、いやに引っ込み思案な蛾だ。タバコを、胸のあたりに押しつけてやった。神経叢を破壊されて、じたばたもがいているやつを、蜘蛛の通路に、はじきこんでやる。すぐに、期待どおりの劇がはじまった。蜘蛛は、跳ねたと思った瞬間、もう生き贄の上にはりついている。やがて、動かなくなった獲物を、顎でくわえて引きずりながら、またのこのこと廻りだす。そうやって、蛾のジュースに、舌鼓をうっているらしいのだ。[27]


趨光性をもった蜘蛛は珍しい。ランプを利用して、餌となる相手をおびき寄せている。すると、この蜘蛛は「人間以後に進化し、本能を定着させた、新種だ」というわけか、だが……と、男は妙に愉しげに推理をめぐらしている。蛾をタバコで傷つけて、蜘蛛の餌になるように仕向けた男が、「人工の灯によって、惹き起こされた、この盲目で、狂熱的な羽はだき……火と、虫と、蜘蛛の、いわれのない密通……法則が、こんな無謀な現れ方をするのなら、一体、何を信ずればいいと言うのか」[27]などと、もっともらしく、小さなサディズムに興じているのである。この「火と、虫と、蜘蛛の、いわれのない密通」には、そそられるものがある。フィナーレに近い見世物ショーとよく似た感触を、わたしはこの場面に感じてきた。むろん、そこでは観察しているのはムラの男らであり、かれらの懐中電灯の光の群れが、男と女とが交錯する「いわれのない密通」を舐め回すように追いかけているのだ[30]。
ともあれ、砂の穴の底には、驚くほどに生き物の気配が希薄だった。代わりに、言葉やイメージだけの鳥獣虫魚ならば、蝶・トンボ・ハンミョウ・鼠・トカゲ・かたつむり・ミミズ・猿・くらげ・魚・牛・馬・毛虫などが見られる。木食い虫という木に穴をあける虫(シロアリ・ノコギリカミキリ・オバタマムシ)[4]や、水の代わりに自分の小便を飲むという特別な鼠・腐肉を餌にしている昆虫[24]、そして紙袋をかぶった猫[24]や猫の死骸[30]といった、変わり種も登場する。すでに、幻想の領域に近づいているかもしれない。あるいは、「かたつむりの眼で見れば、太陽だって、野球のボールのような速さでうつるかもしれないのだ」[10]などともある。
これにたいして、喩としての鳥獣虫魚となると、その多様さは驚くばかりである。ことに目立つのが、女にたいして喩の網がかぶせられる場面である。
たとえば、女の誘いかける仕種が、まるでハンミョウ属の手口だと思う[6]。うつ伏せになった裸の女のうしろ姿は、ひどく淫らで、獣じみていた[7]。眼を伏せ、かすかに吐息をつき、肩を落とした女について、まるで理不尽な難題をふきかけられた、不幸な仔犬のように、と形容される[9]。流し場で、頭からかぶったビニールの布の下でこっそり食事にとりかかる女のうしろ姿を、虫けらのようだと思う[10]。獣のような女[10]。豚みたいな顏をするのはよせと、男は女への欲情に苛立つ[12]。いましめを解かれた女は顎をつきだして喘いいだが、手拭は女の唾液と口臭で、鼠の死骸のようにずっしりと重く、頬は干魚のようにこわばっていた[16]。女の足の指が、強く内側に折りまげられ、小判鮫の吸盤のようになった[16]。突然、地蜂が卵を産みつけるような姿勢で、女が体を二つ折れにして、痛みを訴えた[17]。女はやかんに噛みつくと、鳩のように唸って、水を飲んだ[18]。お願いいたしますと、犬のように耐えてきた女が、哀訴しはじめた[18]。やがて始まるセックスの前に、女は兎のような眼で、男を見上げる[20]。激しいセックスへの予感のなかで、女はいま、夜光虫の波を浴びたように内側から輝いている[23]。観念した犬のように、女は無抵抗にうなじを垂れた[30]。
女の姿態や顏の表情などが、くりかえし、けもの・仔犬・犬・虫けら・鼠・干魚・小判鮫・地蜂・鳩・夜光虫といった鳥獣虫魚にまつわる喩を仲立ちとして表現されている。当然ではあるが、偶然ではありえない。喩そのものが、ある種のサディスティックな暴力性と無縁ではない、といってもいい。それは対象を巧妙に支配するための修辞の装置なのかもしれない。豚みたいな顏をするのはよせ、というのは、女への欲情をコントロールしかねている男自身の悲鳴でもあったはずだ。
だから、この喩の暴力は容赦なく、男の側にも降りかかるのである。じつは、そうして男にまつわりつく鳥獣虫魚の喩のほうが、いくらか複雑で屈折しているのかもしれない。セックスの最中に、「食肉動物の食欲が、ちょうどこんなふうなのだろう」[20]と思う場面があって、食べること/交わることの親近性が意識されているらしいことに、注意を促しておく。

  • 蟻地獄の中に、とじこめられてしまったのだ。うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、逃げ場のない沙漠の中につれこまれた、飢えた小鼠同然に……[7]


ハンミョウのような女の誘惑に乗って、蟻地獄のような穴の底に閉じこめられ、飢えた小鼠のように震えおののいている、そんな男の自画像が喩の向こう側に結ばれる。それは、鼠か昆虫みたいに罠にかけて捕らえられる[7]、犬か猫みたいに、罠のなかに女という餌を仕掛けて飛びつかせる[9]、といったイメージで一貫している。自己イメージは、鎖につながれた犬[15]、せっせと飛んでいるつもりで、じつは窓ガラスに鼻づらをこすりつけているだけのオオイエバエ[17]、逃げ道だと思った柵の隙間が檻の入口にすぎないことに、やっと気づいた獣、何度か鼻面をぶつけて、金魚鉢のガラスが通り抜けられない壁であることを知った魚[18]、よだれを流している狼[18]、四つん這いになって土間の砂を掘り返している犬[21]、といった憐憫や滑稽にまみれている。
水を断たれて追いつめられた男は、みずからの身体状況を、無数の傷ついたむかで[18]、忠実な番犬[19]、豚皮のようにこわばる皮膚[19]、おびえた小兎みたいに跳ねまわる心臓[19]、くらげのように踊りだす胃袋[19]などとして感受している。飢えた鼠は移動しながら、血みどろな性交をくりかえし[20]、その性はみのむしのように、証文のマントに埋まって萎縮している[20]。痛みを訴え、歯を鳴らして蹲ってしまった女のうしろから、兎のように数秒でことを済ませる[23]。
ことに、水を断たれて苦しみ喘いでいる場面には、なぜか魚にまつわる喩が重なって見いだされる[21]。たとえば、「腐った魚油のような、汗と分泌物」にまみれて、それでも束の間まどろんだ。目が覚めると、舌のつけ根で熱いにかわが融けており、水がほしいと「魚みたいにあえいでいる」。そして、骨が「罐詰の魚のように」融けて、渇きがこめかみのあたりで破裂した、とある。また、霞んでゆく意識のトンネルのなかを手探りで進み、「魚のはらわたのように脂のにじんだ寝床」に、やっとのことで辿り着いた、とも見える。ここに魚の喩が集中しているのは、むろん偶然ではない。それはしかも、まともに生きて泳いでいる魚ではなく、つねに腐敗や解体を予感されたり、刻印されている魚である。
あるいは、逃亡劇のなかでは、半鐘に追われて心臓が縮みあがり、毛穴が開いて、ぶつぶつ米粒のような虫が無数に這いだしてくる[26]。その終わりには、唾の奥で恐怖が炸裂し、男はだらりと口を開けて、獣のような叫び声をあげていた[26]。女とかぎらず、男もまた鳥獣虫魚の喩にまといつかれていたのだ。
さて、鳥獣虫魚の喩は女と男にからむ以外にも、いたるところに見いだされる。たとえば、人にかかわる描写である。男自身がそうであった教師については、つねに作中で揶揄されているが、「妬みの虫にとりつかれた存在」[11]と端的に語られていた。これはいささか抽象的な虫であったか。そもそも、実在の人間は男と女のほかには、きわだつ輪郭をもって描かれる場面はすくなかった。砂丘のムラに入って間もなく出会った漁師らしい老人については、「なめしかけの兎の皮のような頬を、皺だらけにして笑いかけてくる」[3]と見える。男を砂の穴に巧みに導いた老人である。幾度となく現われ、壁のうえから見下ろして、男の愚痴や抗議をいなす役割を引き受けているのだが、聞いているのかいないのか、ぼんやり首を回して、「じゃれつく猫をはらい落すような仕種」[21]をする場面があった。絶妙な喩ではなかったか。
穴の底からは、かぎられた景観しか許されていないが、そこにも特有な喩が見いだされる。たとえば、戸口の輪郭がほのかな線になって浮かぶと、「ウスバカゲロウの羽のような」淡い月の光のかけらだった[17]。また、戸口のうえにわずかに覗いている空は、とっくに青を通り越して、「貝殻の腹みたいにぎらついていた」[19]とある。あるいは、穴の外に逃れたとき、「食用蛙の卵のような雲」に押しつぶされ、太陽は「溺れるのをいやがって駄々をこねているようだ」[24]という。
鳥獣虫魚の喩は、さらにテリトリーを拡大してゆく。
たとえば、砂による侵攻にさらされているムラの景観については、「砂丘の頂上に近いほど深く掘られた、大きな穴が、部落の中心にむかって幾層にも並び、まるで壊れかかった蜂の巣である」[2]と見える。砂丘とムラとが相互に重なりあっている、神経を逆撫でするような風景であったか。はじめて降り立った砂の穴の底には、小さな家が一軒、ひっそりと沈んでいたが、男は「まるで牡蛎のようだと思う」[3]のである。海底の砂になかば埋もれた牡蠣とは、いささか異相であったか。
部落=ムラについて。それは男にとって「刑の執行者」であり、しかも「意志をもたない食肉植物であり、貪欲なイソギンチャク」[29]のように不条理な存在であった。男はみずからを、その罠に引っかかった「哀れな犠牲者」と感じているわけだが、それはほとんど捕虫網にとらわれ、殺虫瓶のなかに放りこまれる虫たちの似姿そのものだ。だからこそ、昆虫採集という、作品全体を覆っている寓話的なヴェールが生きてくるのである。
ほかにも、いくつか拾っておく。戸口から射しこむ淡い光のなかで新聞をひらき、「死んだ蠅の脚のような活字」[13]に視線を泳がせている。「ずるい獣のように、吸いつく砂」[16]とは、まるで意志があるかのような砂だ。あるいは、時間の意識について。待つ時間はつらく、それは「蛇腹のように、深いひだをつくって幾重にもたたみこまれていた」[18]という。また、時間は「馬のように駈け出したりすることはない」[19]とある。さらに、ゆっくりと砂がからんだ喉の奥に水を流しこみながら、「石を食う獣」[7]のことを想像する。最後に近く、異様に拡大された細部ばかり見えて、吐き気を催していたのがウソのように、いまでは広角レンズをつけた(ような)眼に、すべてが「小じんまりした、虫のようにしか」[31]見えなくなっている。
こうして、驚くほどに過剰な鳥獣虫魚たちの氾濫にたいして、植物にまつわる喩はごくすくない。食肉植物が幾度か登場してくるが、これはむしろ動物に近い例外的な植物である。食肉動物の自明性にたいして、食肉植物の肥大化した異様な表情は、どうか。そこには男と女が二重写しにからんでくる。たとえば、女の誘いは「甘い蜜の香りをよそおった、食肉植物の罠にすぎなかったのかもしれないのだ。暴行という、醜聞の種をまいておき、次は、恐喝の鎖が、彼の手足をつなぎとめて……」[12]と妄想がふくらんでゆく。あるいは、砂の穴からの脱出に成功して、地上に上がることさえできれば、すべては追憶の手帳のあいだで、小さな押し花になる、「毒草だろうと、食肉植物だろうと、薄い半透明な一片の色紙になり」[23]と見える。毒草や食肉植物が女の喩であることは、当然なことだ。そして、すでに触れた「意志をもたない食肉植物であり、貪欲なイソギンチャク」[29]という個所にも、砂の女のひき裂かれた貌が透けて見えるのではないか。女は理性やら意志はもたないが性的には貪欲な、食肉植物にしてイソギンチャクである、という喩の位相を押さえておきたい。
いずれであれ、『砂の女』一編には、過剰なまでに鳥獣虫魚が登場してくる。実際に見たり、触れたりすることが可能な鳥獣虫魚の例は、とてもすくない。砂丘のムラと、砂の穴の底には、生き物たちが生存を維持するための条件がかぎりなく削がれているのだ。それにたいして、喩としての鳥獣虫魚たちが氾濫していることは、なにを意味するのか。あきらかに、動物や野生の状態への退行というテーマが遍在しているのだ。






函入り単行本 1962年


文庫 1981年

『砂の女』
 安部公房
 新潮社