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第3回


二、鳥獣虫魚の譜(下)

 ハンミョウの系譜学

いくつかの切り口から考えてみたい。
ハンミョウとはなにか、という問いには、以前からそそられてきた。ハンミョウにまつわる文学史的な系譜があるのかもしれない。とはいえ、それはいくらか大げさな物言いであり、わたしが知っているのは、泉鏡花から安部公房へと連なるハンミョウの系譜学の断片にすぎない。ここでは、そのメモ程度を書き留めておくことができるだけだ。
『砂の女』という作品にとって、ハンミョウは喩の水準においては、見逃すことがけっして許されぬ存在である。ただし、生き物としての実体をもって姿を現わすことは、一度もない。姿を見せぬままに、喩としてのみ過剰にあまねく存在するのである。
昆虫採集家としての男は、新種の発見にこだわり、そのために「すべての生物が死に絶えた、沙漠のような」[2]環境のなかで、強い適応性をもって生きている、それゆえに変種が多い昆虫に狙いを定めるようになった。砂地に関心が生まれて、家の近くの河原で、鞘翅目ハンミョウ属のニワハンミョウに似た虫を見つけたが、残念なことに取り逃がしてしまった。それ以来、男は黄色い前足をもったニワハンミョウの捕囚(とりこ)になったのである。この採集旅行のなかでも、ハンミョウ属の新種を仕留めてやろうと、沙漠のうえを歩きまわったが、発見することはできなかった。男はハンミョウ属にしか関心がない。貧弱な六本足でやっとこさ体を引きずっているゴミムシなんぞは、視界の外だ[24]。逃走劇に失敗して穴の底に降ろされた男は、そこでも蜘蛛や蛾よりも、ニワハンミョウが「砂に残していった、影」[27]にとらわれていた。
ハンミョウの生態学がとぎれとぎれに語られている。ハンミョウはひどく幻惑的な飛び方をする。「飛んで逃げては、まるでつかまえてくれと言わんばかりに、くるりと振り向いて待ちうける。信用して近づくと、また飛んで逃げては、振り向いて待つ。さんざん、じらしておいて、最後に草むらの中に消えてしまう」[2]といった具合いに。

  • 事実、ハンミョウ属は、代表的な沙漠の昆虫でもあった。一説によると、その奇妙な飛び方は、ねらった小動物を巣からさそい出すための罠なのだともいう。たとえば、ネズミやトカゲなどが、ついさそわれて沙漠の奥に迷いこみ、飢えと疲労でたおれるのを待って、その死体を餌食にするというのである。フミツカイなどと、いかにも優雅な和名をもち、一見優男風の姿をしていながら、実は鋭い顎をもち、共食いさえ辞さないほどの獰猛な性質なのだ。その説の真偽はさておくとしても、すくなくとも彼が、ニワハンミョウの妖しい足どりに、すっかり魅せられてしまったことだけは、もはや疑えないことだった。[2]


なぜ、ハンミョウ属は沙漠の昆虫でもあるのか。沙漠にも花が咲き、虫や獣が住んではいるが、それらは「強い適応能力を利用して、競争圏外にのがれた生き物たち」[2]である。ハンミョウ属がまさに、それだ。ハンミョウは群居を嫌い、ときには「一キロ四方を、たった一匹で縄張りにしていることさえある」[3]という。そして、あの奇妙な飛び方については、小動物を巣から沙漠の奥深くへとおびきだし、飢えと疲労で死んだところを餌食にするのだ、などといった説明が施されているわけだが、真偽のほどはわからない、という。
フミツカイという優雅な和名があるらしい。文使いには「遊里に出入りして、遊女の手紙を届けるのを業とした者」(広辞苑第4版)という意があることも、記憶しておこう。ほかに、ミチシルベやミチオシエといった呼び名もあるようだ。ハンミョウの「妖しい足どり」が、人を導く道しるべや道教えのように感じさせることから来ているのだろう。この男ばかりでなく、古来より、この美しくも妖しい虫には、多くの人が魅せられてきたのである。
ハンミョウの生態学はそのままに、砂の女に横滑りさせられる。ハンミョウをもとめて砂丘へとやって来た男は、穴の底で出会った女を、はじめての晩からすでに早く、ハンミョウと重ねあわせに眺めている。一人暮らしの女の家に泊まることになったのだ。女は作り笑いを浮かべ、くすぐられたように身をよじる。砂掻きをしながら、すれ違いざま、上眼使いに鼻にかかった声をかけ、指先をくすぐるように男の脇腹に押しこんでくる。そして、女の言葉は、「厚いモンペの生地の下にかくされた、その肉体を感じさせるほどのはずみを持っていた」[5]のだった。すくなくとも、男はそれらを性的な誘惑と受け取ったのである。

  • すると女は、まるで挑まれでもしたように、急に体をくねらせて駈け出していき、どうやらそのまま崖の下に戻って、また仕事をつづけるつもりらしいのだ。まるでハンミョウ属の手口だと思う。
  • そうと分ったら、もうそんな手にはのるものか……[6]


誘惑しておきながら、砂掻きの仕事を続ける女にたいして、男は「まるでハンミョウ属の手口だ」と感じたのである。それはしかも、翌日になって、縄梯子が引き揚げられていたことによって、砂の壁のなかに閉じこめられたという現実がむき出しに突きつけられるに及んで、いっそう強化されることになる。いわば、「蟻地獄の中に、とじこめられてしまったのだ。うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、逃げ場のない沙漠の中につれこまれた、飢えた小鼠同然に……」[7]ということだ。男の自意識はすでに、みずからをハンミョウによって沙漠の奥へと誘いこまれ、還ることを禁じられて、飢えと疲労で死んでゆく鼠になぞらえるしかないところに追いやられている。
ところで、ここですこしばかり脱線して、ハンミョウの系譜学のメモを書き留めておく。泉鏡花から安部公房へと繋がる線分を探り当てておけばいい。鏡花の二つの小説作品に現われるハンミョウに触れてみたい。
まずは、『由縁(ゆかり)の女』(『鏡花全集』巻十九)である。その第十四章に、次のようなハンミョウ(斑猫)について語られた一節がある。湯屋の会話であった。ここでは、ハンミョウは恐ろしい毒虫として登場している。コウチュウ目(鞘翅類)ハンミョウ科の甲虫の総称としてのハンミョウとは科を違える、マメハンミョウやツチハンミョウには猛毒があるらしい(広辞苑第4版)。

  • 斑猫の毒は可恐(おそろ)しい。貴方がたは、よく此(こ)の郊外の散歩をなさるで、野道畔道は御注意をなさい。道の真中を、人の歩行(ある)くさきへ、ツゝと飛んでは、ぶるぶると羽を震はせて、髯(ひげ)をぬうと揺(ゆ)る、胴細(どうほそ)で羽蟻(はあり)に似て、青に黄を交ぜ、晃々(きらきら)と紫色に光つて、ぽつりと真赤な斑(ぶち)のある綺麗な蟲が、 う、振向いて狙ひながら、人が近づくと又スイと五六尺飛んで、其処でまたひよいと留(と)まつて、同じく晃々(きらきら)と光つて居ます。俗に(道をしへ。)と言うてね。……化けた山鳥は同じ事をして、人間を山奥へ誘込むと言伝へて其(それ)よりも可恐(おそろし)い。僅か一寸の蟲、山鳥は人を迷はし、(道をしへ)は人を殺すと言ふくら ぢや。


ここでのハンミョウという虫の語られ方は、まさにミチオシエという呼称が喚起するイマジネーションの圏内にあって、ほとんど『砂の女』と変わるところがない。後半部にいたると、ヤマドリとの対比において、ハンミョウは人を山奥へと誘いこんで殺す虫であることが語られている。ヤマドリは人を迷わし、ハンミョウ(道教え)は人を殺す、といった諺めいた言葉があったのかもしれない。
このあとには、『砂の女』にはない毒の記述が見いだされる。

  • 此はつゝじの花盛りの頃から掛けて、真夏に多い。……秋は葛上亭郎(くずのはむし)と称へて、赤頭玄衣(せきとうげんい)と言ふから、頭(こうべ)赤うして羽の真黒な奴、即ち黒斑猫とも言ひます。……春は銀斑猫。……一体一つ宛(づゝ)別種のものか、或は季節に応じて、波のいろ  に魚の鰭(ひれ)の変るやうに、色が変ずるのか、其の辺は弁(わきま)へませぬ。が、いづれも大毒ぢや。普通薬用として薬鋪(やくほ)に貯(たくは)ふるのは、捕るにも易し、目にも多く触れる処から、右の(道をしへ。)と言ふのが主で、此は赫(かつ)と色の浮いて居る時ゆ 、斑猫の中でも、どちらかと言へば毒分が薄いとしてある。就中(なかんづく)恐れ戦慄(おのゝ)くべきは、地膽(ちたん)と称へて冬蟄(ふゆちつ)するもので……猛毒劇毒、此に至ると、器の蓋を払ふにも鼻蔽(おほひ)を掛けねば成らぬ。……得難いだけに、 毒(ちんどく)、砒石(ひせき)とともに、恐らく毒方(どくほう)の寶(たから)としてある。


ここに見える、いわば民俗語彙とでもいうべき呼称をもつハンミョウたちが、現代の分類学のなかでいかなる種別に括られるのかは、とりあえず不明である。そこにはすくなくとも、われわれの知らない人間とハンミョウとの多様な関係の歴史が埋もれている。どうやら、ハンミョウの毒は反転して薬となり、漢方で利用されているらしい。いずれであれ、『砂の女』には摂りこまれなかったハンミョウの貌があったことだけは、とりあえず確認しておくことにしよう。
いまひとつ、『龍潭譚』(『鏡花全集』巻三)のなかに、きわめて象徴的な描写をもって、ハンミョウの道教えとしての側面と、猛毒の虫としての側面とが浮き彫りにされている。幼い少年が山という異界へと誘われ、導かれてゆく、その水先案内人のようにハンミョウが登場してくる。

  • 行く方(かた)も躑躅(つつじ)なり。来(こ)し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる、あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わが居たる一株の躑躅のなかより、羽音たかく、蟲のつと立ちて頬を掠めしが、かなたに飛びて、およそ五六尺隔てたる処に礫(つぶて)のありたる其わきにとゞまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかゝれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五六尺ばかりのところにとまりたり。其まゝ小石を拾ひあげて狙ひうちし、石はそれぬ。蟲はくるりと一ツまはりて、また旧(もと)のやうにぞ居(を)る。追ひかくれば迅(はや)くもまた遁(に)げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラとさゝやかなる羽ばたきして、鷹揚に其二すぢの細き髯を上下(うえした)にわづくりておし動かすぞいと憎さげなりける。


こうして、少年はハンミョウとの追跡/逃走のゲームに誘いこまれ、ついに小石で打ち殺すのであるが、そのときにはもはや帰り道を見失っている。そして、ハンミョウの毒に頬をやられて、異形の顔となっていた。探しに来た姉すらも、少年を弟として認めることができず、置き去りにされるのだ。少年はそのまま、山という異界へと導かれてゆく。そうして、山中の一軒家に棲むうつくしき人(山の女、水の女、母なるものの結晶のような……)にいだかれて、ハンミョウの毒から癒される。それが一編の神隠し譚として構成されているのである。
『砂の女』では、ついに、ハンミョウは実体をもって姿を現わすことはなかった。男は砂丘のうえを、幻のハンミョウに誘われ、導かれ、彷徨いながら、いつしか穴の底の女の元に辿り着いたのである。そこもまた、日常世界の縁に転がっていたもうひとつの異界であったかもしれない。とはいえ、待ち受けていた砂の女には、いささか神々しさが欠落している。水の女のように仕えるべき神がいるわけでもない。穴の底には、すぐかたわらにあるはずの海の音も、潮の匂いも届かない。砂の女は海の神からすら拒まれ、遠ざけられていたのではなかったか。
あらためて、ハンミョウはただ、気配やイメージとしてのみ転がっている。それでいて、過剰なまでに喩の鎧をまといながら、くりかえし登場してくるのである。それはなぜか。とりあえず、大きな昆虫採集の図柄のなかでは、ハンミョウを追いかける男こそが、気がつくと虫に変化(へんげ)しているのだ。ムラという名の捕虫網によって捕らえられ、砂の穴という殺虫瓶の底に放りこまれている。いや、むしろ男は沙漠の奥へと誘いこまれた鼠であり、やがて飢えと疲労のはてに死んでゆき、ハンミョウの頑丈な顎に噛み砕かれる運命にあるのかもしれない。男はたしかに、そんな想像から逃れられずにいる。


 四つん這いの淫らさ

それにしても、女はハンミョウであるばかりでなく、そこかしこで虫けらであり、獣でもある。獣のような女という先験的なイメージが、分厚く堆積している。獣のような女とはしかし、荒ぶる暴力を抱いた野獣のような存在というわけではない。文化から遠く、野生の側に追いやられた動物的な状態を示唆している。その獣のような女にそそられ、激しく欲情している男こそが野獣じみた存在であることは、やがてあきらかとなる。
さて、穴の底で目が覚めると、すでに真昼近かった。二日目が始まったのだ。素裸で、すっかり砂にまぶされた女が、影のように浮かんで見えた。顏の部分だけを手拭いで隠して、ふだん人が隠している部分はむき出しにしている、とても奇妙な裸体だ。砂が細部を隠して、女らしい曲線を強調しており、「まるで砂で鍍金された、彫像のように見えた」[7]のである。それから、縄梯子が消えているのを発見して、逆上した男が女を追及する場面へと転換する。女はただ、首を振りつづけるばかりで、なにも答えない。縄梯子は、女以外のだれかが壁の上側へと引き揚げたのか。

  • すると、女のこの仕種と沈黙は、とほうもなく恐ろしい意味をもってくる。まさかと思いながらも、心の奥底で、いちばん案じていた不安が、とうとう的中してしまった。縄梯子の撤去が、女の了解のうちに行われたことの、これは明白な承認にほかなるまい。女は、まぎれもなく共犯者だったのだ。当然、この姿勢も、はじらいなどという、まぎらわしいものではなく、どんな刑罪でも甘んじようという、罪人、もしくは生け贄の姿勢にちがいない。まんまと策略にかかったのだ。蟻地獄の中に、とじこめられてしまったのだ。うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、逃げ場のない沙漠の中につれこまれた、飢えた小鼠同然に……[7]


傍点個所はすでに引いている。男はこのとき、ハンミョウによって沙漠の奥深くに誘いこまれた鼠だった。ありえない、常軌を逸したできごとが起こったのだ。戸籍、職業、納税証明、医療保険証をみな持っている一人前の人間を、「まるで鼠か昆虫みたいに、わなにかけて捕える」などということが許されていいものか。ここはたとえば、「砂に侵蝕されて、日常の約束事など通用しなくなった、特別な世界」なのかもしれない、と思う。女はそれでも、「生け贄の沈黙」を頑なに守っている。そう、「このかたくなな沈黙……あの、膝を折ってうつぶせになった、完全に無防備な生け贄の姿勢……」だ。

  • うつぶせになった、裸の女の、後ろ姿は、ひどくみだらで、けものじみていた。子宮をつかんで、裏返しにでも出来そうだ。だが、そう思ったとたんに、ひどい屈辱に息をつまらせた。遠からず、女をさいなむ刑吏になりはてた自分の姿が、まだらに砂をまぶした女の尻の上に、映し出されるような気がしたのだ。分っている……いずれはそうなるのだ……そして、その日に、お前の発言権は失われる……[7]


その淫らで、獣じみた女の裸に怯えているのは、男のほうだ。男こそが屈辱にまみれながら、いずれ欲情に抗しきれず、「女をさいなむ刑吏」に転落した挙げ句に、いっさいの発言権を失うことをはっきりと予感しているのだ。いや、すでに前夜、はじめて穴の底に降り立ったときから、女は誘惑とはぐらかしを交互に見せつけて、男を翻弄したのである。男の感情は妙に高ぶっていたが、それは「女の愚さにたいする腹立ち」であるよりは、なにか不当で奇怪な、「もっと底知れないもの」に取り巻かれていることへの不安がもたらしていたのかもしれない。
それが、裸の女のうしろ姿であることは、むろん偶然ではあるまい。女の尻のうえに、男が映しだされている。男にとって問題とされるべきなのは、女そのものではなく、「うつぶせになった、あの姿勢」である。「あれほどみだらなものは、まだ見たことがない。絶対に引返してはいけない。なんとしても、あの姿勢は危険すぎる」[8]と、男は自身に言い聞かせるように思う。別のときには、頭からビニールの布をかぶって、流し場でこっそり食事をしている女のうしろ姿にたいしても、男は「虫けらのようだ」と感じる[10]。獣じみた、虫けらのような、といった喩を抱いた形容は、膝を折ってうつ伏せになったうしろ姿、それゆえ「無防備な生け贄の姿勢」に向けてこそふさわしいものだ。

  • しかし、体の芯のあたりに、どうしても融けきれない、氷の棒のようなものが残った。やはり何処かで、疚しさを感じているらしいのだ。けもののような女……昨日も、明日もない、点のような心……他人を、黒板の上のチョークの跡のように、きれいに拭い去ってしまえると信じ込んでいる世界……現代の一角に、まだこれほどの野蛮が巣くっていようとは、夢にも思わなかった。[10]


生け贄への欲情の疚しさと、自分を穴の底に監禁している野蛮にたいする怒りとの結節点に、女がうつ伏せに蹲っている。やがて訪れるかもしれない暴力の襲来にたいして、ほかには身を守る術を知らず、女はただ、うつ伏せにまあるく蹲るしかない。だからこそ、男は女にたいして、どうしても獣のような、という喩の冠を載せずにはいられない。女が淫らなのではなく、男の側の眼差しが獣のように淫らなのである。女の尻に男が映っている。
四つん這いという、動物性の端的な表われといえそうな言葉が、幾度か見いだされることも関わりがありそうだ。二足歩行を選んで以来、人類にとって四つん這いとは、赤ん坊の季節を過ぎれば、日常生活のなかに滅多に見られないものとなる。それはあくまで、例外的な状況なのである。それが、穴の底には無造作に転がっている。

  • 女が、四つん這いになって体をのばし、笑いながらランプの芯を、指ではじいた。すぐまた明るく燃えだした。女はそのままの姿勢で、ランプの火を見つめながら、いつまでも作ったような笑いをうかべている。どうやら、わざとえくぼを見せつけているのだと気づき、思わず体を固くする。身近な死について語った直後だっただけに、よけいみだらに思われた。[4]


最初の晩である。身近な死についての語りのあと、四つん這いのままに作ったような笑いを浮かべる、その微妙な取りあわせが、なんとも淫らなのである。あるいは、縄で縛られ、犬のように耐えてきた女が懇願のすえに、ようやくいましめを解かれた場面である。女は「そろそろと、体をまわし、尻のほうから、四つん這いになる」[18]と、やっとのことで立ち上がり、のろのろと板壁の蔭での放尿へと向かう。そういえば、女の淫らなうしろ姿に続けて、男の放尿がさりげなく書きこまれた場面もあった[7-8]。穴の底では動物的であることが、常態なのである。
女ばかりではない。男もまた、四つん這いになる。二日目の昼、縄梯子が引き揚げられていて、その背後にひそむ悪意に気づいた瞬間、男は砂の壁を四つん這いで、がむしゃらによじ登ろうとした[7]。あるいは、水を断たれたなかで、ついに女とのセックスへと踏みだしてしまった男は、情欲が破滅への距離を短縮しただけであることに気づいて、突然、「四つん這いになって、犬のように土間の砂を掘り返しはじめた」[21]のだ、水を求めて。ともに、この四つん這いのシーンは、男が追いつめられて恐慌状態に陥ったときに現われている。


 性の見世物ショーのはてに

さて、フィナーレは近い。逃亡にも失敗して、ふたたび穴の底に戻された男は、月の表面から青酸カリの錠剤へと連想を転がした、まさしくあの晩、女に「たまには、その辺を、散歩でもさせてもらえないものかねえ?」と話しかける。観念した犬のように無抵抗な女を相手に業を煮やして、男はとうとう、例の老人とじかに交渉することを思いつく。

  • 「そうだねえ……」老人は、頭の中で、古い書類を整理しながら喋っているような、間のびのした調子で、「そりゃあ、かならずしも、出来ん相談じゃあるまいねえ……まあ、例えばの話だが、あんたたち、二人して、表で、みんなして見物してる前でだな……その、あれをやって見せてくれりゃ、こりゃ、理由の立つことだから、みんなして、まあ、よかろうと……」
  • 「なにをやるって?」
  • 「あれだよ……ほれ、雄と雌が、つがいになって……あの、あれだなあ……」[30]


ストリップ劇場の生板ショーのように、穴の底という舞台でセックスをしてみせよ、という提案であった。老人のまわりでは、どっと気違いじみた笑い声が起こる。金の小鳥のような懐中電灯の光が七、八本、穴の底を這いまわりはじめる。焼けた樹脂のような熱気と、狂気の渦だ。
男が人格的に崩壊しながら、獣へと堕ちてゆこうと足を踏みだしたとき、女は「気がふれてしまったんだよ! ……そんなこと、容赦しやしないからね! ……色気違いじゃあるまいし!」と、息苦しげに、激しく喘いだ。ここまで踏みつけにされて、いまさら体面などがなんの役に立つか。もはや、見られることと見ることとを、区別する必要はない。その代償として、地上を歩きまわる自由が手に入るのだ。そうして男が女にぶつかってゆく。女の叫び声と、壁に倒れかかる音とが、崖のうえに、獣じみた熱狂と紅潮を惹き起こす。口笛、手を叩く音、卑猥なわめき声、そして、さらに増えた懐中電灯の光。男は襟首をつかんで、女を舞台に引きずりだす。穴の三方には、夜祭りの篝火のような光が揺れて、耳鳴りに似た喚声が、黒い翼を空いっぱいに広げている。

  • 男は、その翼を、自分の翼のように錯覚していた。崖の上から、固唾をのんで見守っている連中を、まるで自分のことのように、はっきりと感じることが出来たのだ。彼等は、彼の部分であり、彼等がしたたらせている色のついた唾液は、そのまま彼の欲情である。彼のつもりでは、生け贄であるよりも、むしろ代理執行人なのだった。[30]


男はもはや、みずからの欲情と観客たちの欲情とを分かつことができない。男自身がかれらの一部であることに気づいている。かれらの代理となって、いま女を生け贄とした見世物ショーを執り行なおうとしているのだ。男は女のモンペの紐をほどこうと手こずり、いっそひき裂いてしまおうとする。その瞬間、女が体をよじって、振りほどいた。鉄の固さで跳ね返されながら、男はむしゃぶりついて、哀願する、「たのむよ……どうせ、出来やしないんだから……真似事でいいんだからさ」と。

  • だが、もう、すがりついたりする必要はなかったのだ。女は、逃げる気など、すでになくしていた。なにか、布が裂けるような音がしたと同時に、全身の怒りと重みをかけた肩の先で、思うさま、男の下腹が突き上げられている。男は、あっけなく膝をかかえて、二つ折れになってしまう。のしかかって、その顏のなかに、かためた拳を、交互にめりこませる。一見、のろのろとした動作だったが、その一つ一つが、塩をくだくような湿った含みをおびていた。男の鼻から、血が吹きだした。血に、砂がこびりついて、男の顏は土くれになった。[30]


思いがけず、暴力によって制圧されたのは女ではなく、男であった。劇的な転換であった。それにつれて、崖のうえの興奮もみるみるしぼんでしまう。不満と失笑と声援とは、すでに足並みが乱れて、隙間だらけだった。始まりがそうであったように、終わりもまた唐突だった。崖のうえでは、仕事を促す掛け声とともに、明かりの列も消えていった。あとにはただ、暗い北風が吹きすさぶばかりである。それにしても、男はいわば湿った塩の塊だった。たしかなアイデンティティなどとうに壊れており、女の拳ひとつで脆くも粉々に崩れてゆく、といったところか。
そのあとに続く数行には、ひっそりとした事後の雰囲気が漂っている。

  • 砂にまみれ、うちのめされて、しかし男は、やはりすべてが筋書きどおりに搬んだのだと、動悸だけが痛いように冴えかえる、しめった下着のような意識の隅で、ぼんやり考えていた。火のようにほてった腕が、腋の下にかかり、女の体臭が、棘になって鼻腔を刺した。すべてを委せきった、女の腕のなかで、自分はすべすべした平らたい河原の小石になるのだと思った。残った部分は、液化して、女の体に融け込んでしまいそうだった。[30]


これはしかし、たんなる事後の付け足し的な情景ではない。この数行をいかに読むかによって、『砂の女』の印象が大きく異なってしまう。その程度には重要な場面であったはずだが、読み解きはけっしてたやすいものではない。
ここでは、淫らに獣じみた振る舞いに駆り立てられているのは、男であり、崖のうえの男たち(……いや、若い女も混じっていたか)であったことが手がかりとなる。気違いじみた笑い声、焼けた樹脂のような熱気、狂気、獣じみた熱狂と紅潮、言葉にはならない卑猥な笑い声、酔いにまかせた猥褻な罵声……、それらはみな、崖のうえから降りかかってきたのである。そうした狂気に感染させられて、つかの間気が触れた男が、一匹のケダモノと化していたことは言うまでもない。それにたいして、砂の女だけが冷静に現実を認識しており、性の見世物ショーをたった独り、あきらかに拒絶したのである。女だけが獣であることから逃れていた、といってもいい。いわば、そこかしこで反復されてきた、獣じみた女という表象は、このとき、つまり最後にいたって劇的にひっくり返されたのである。
くりかえすが、シテ役の男と、観客の村人たちが、狂気じみたケダモノ性を顕在化させるかたわらで、砂の女はただ一人、みずからの意志で、動物性からの離脱をはかったのだ。獣のような、虫けらのような……という喩をもって、ひたすら受身に描写されてきた女が、獣に堕ちてゆく男を渾身の暴力で打ちすえて、救済する。そんな図柄が意表を突いて、そこに浮上している。
「すべてを委せきった、女の腕のなかで、自分はすべすべした平らたい河原の小石になるのだと思った」という一行こそが、ひそかになにかを物語りしている。男はいま、河原に転がっている平たい小石である。残った部分は液化して、女の体に融けこんでしまう。あの夏の日に、砂丘のムラを訪れ、そのまま穴の底に幽閉されて以来の日々を思えば、そして、その苦闘と挫折の連なりを思い返せば、納得がゆく。人格崩壊の瀬戸際にまで追いつめられた男を、赤子のように抱いて救済する砂の女はこのとき、赤子を抱く観音菩薩か、鬼子母神であったかもしれない。鏡花がかたわらに置いていた鬼子母神像が、赤子を懐に抱く姿であったことを、ふと思いだす。






函入り単行本 1962年


文庫 1981年

『砂の女』
 安部公房
 新潮社