第1回

母を失ったことを2年たった今もひきずっている。哀しみや後悔や恋しさやそんな母に対するあれやこれやの感情一切合切を土甕の中に入れ、きっちり蓋をしたが最後、一度もあけずにずりずりとひきずっている。父も私もだ。
幼い頃毎年のように引っ越しを繰り返し、一人っ子で頼れるものがなかった私は、常に母親への気遣いで埋め尽くされていた。母が喜ぶように、母を怒らせないように、母に認めてもらえるようにすることが子ども時代も青春時代も私の行動のすべてだった。なのに大切な母を平気で困らせる父は、横暴で邪な存在だった。
厳格な役人の家に生まれ、3歳の時に実母と死別し、折り合いの悪い異母兄弟の中で育った父は、母を唯一無二の存在として独占し、自分だけが愛されることを望んだ。だから母の愛を半分こしなければならない私は、恋敵であった。
こうして60年近く互いを牽制し合っていた父と私の真ん中が、母の死で突然すっぽりとぬけてしまった。すっぽ抜けたその真ん中の場所に、見えない重い甕がどすんと置かれた。
とまどった。この甕はどこにも置き場所がない。割るわけにもいかぬ。さりとて、中をのぞく勇気もない。しかたなく、ふたりで、ずりずりと、かわりばんこにひきずりまわしている。
金曜日の夜、山口の実家に帰りつき、少々建てつけの悪い勝手口の戸を開けると、そこに甕がどすんとある。気配を感じ取った父が、自分の部屋のベッドから這いおりて、足を引きずりながら、姿を見せる。父は、顔中を皺だらけにして入れ歯を外したふにゃふにゃの声で「おかえり」と笑う。
おかえりこのかめはわしがひとりでまもっておったぞい
父の声の明るさは、白熱灯のフィラメントがもうじき切れそうに危うい。
ありがとうではきょうからしばらくこのかめわたしがひきうけさせていただきます
私は火曜日から金曜日まで岡山の大学に勤めているので、その間の不在を追い目に、次の火曜日までの日々を父の傍らで過ごす。
先週の金曜日の夜こと。両手に近所のスーパーで買いこんだ食料をぶら下げ、いつものように勝手口のドアを開けると、おや、必ず出てくる父の姿がない。
見れば、台所のイスにしょんぼり座っている。
「ただいま」
「ほかにゃあどこもわるうはないんじゃが、左足の膝から下が痛うてかなわん。こりゃあ、わしゃあ、もうだめかもしれん」
いつもなら、「だめかもしれんっちゅうて、だめになったひとはおらんよ」と跳ね返すのだが、曲がった背骨を浮き上がらせるくたびれたパジャマ姿の父をみたら哀れになった。あぁ、このひとは、だれがどうなぐさめようと、だめかもしれんと思うちょるんじゃなぁ。そりゃ、無理もないわなぁ。86年も生きてりゃそういう気持ちにもなるわなぁ~、としんみり。それでつい口から思わぬ言葉が出てしまった。
「じいちゃん、たいしたききめはないかもしれんけど、私がマッサージしてみようか」
「いやそりゃあ……」父がとまどっている。
「そうだ、その前に足をあったかいお湯で洗おうや。あっためたほうが、効果があるよ」もうこの口は止まらない。
私は風呂場に駆けこみ、湯船の縁の水気をタオルでふきとって、そこに、骨ばった父のお尻をのせる特等席を急ごしらえした。
「すまんねえ。こねえなことまでしてもろうたら、バチがあたるが」と父がもぐもぐ言いながら、ステテコ姿でやってきた。
聞こえぬふりで着ていたスーツの袖と裾をまくり、石鹸を使って父の左足を洗い始める。膝の裏もふくらはぎもぬるぬるだ。毎日風呂に入らぬまま市販の湿布薬を塗りたくっているからだろう。気づけば、ぬめりがとれ湯気の上がる父の左足を大事そうに抱きかかえている私がいる。
何しとんの、私。
何されとんじゃ、わし。
そのままふたりよたよたもつれあって父のベッドに向かう。 
仰向けになった父がはだかの左足を投げ出す。茶色いシミやあざやひっかき傷の合間に縮れたすね毛がぽつぽつと生えている。私はその足に、真っ黄色の軟膏をぬり、ゆっくりとてのひらで伸ばし始める。足首から上へ足首から上へ。くるぶしの周りは円を描き、足の裏は枝を天に伸ばしていくように。
父の皮膚はざらざらで、血管がその皮膚を押し上げ古いゴムチューブのように波打っている。アトピー体質でかさついた皮膚のあちこちが破れている私とこの父の肌は、どう見たってひとつながりだ。母に似ていれば、白磁のようにぽってりと艶のある肌であったろうに。そんなことをぼんやり思いながら、最後は、親指から小指まで、山、谷、山、谷と稜線にそって、指をすべらせていく。
「こりゃあきもちええぞ。こねえなことまでしてもろうたら、どうにもバチがあたるわいや」
父の声が泡ぶくのように空気に溶けていく。
その時だ。触っている足に目を落とした私は、ひゃっと声をあげた。これは父の足じゃない。
目の前に横たわっていたのは、息をのむほど白くほっそりとした足だった。
だれの足? これ、だれの足?
突然私が奇妙な声をあげたので、父も何事かと上半身を起こした。そして父も、自分の股の付け根から下へのびている真っ白いそれをみて、うおっと声をあげた。
なんかこりゃあ? こりゃだれの足か?
そしてふたりとも、ハッとした。これはほかの誰でもない母の足だ。2年間ふたりが1日も欠かさず病室で触り続けた母その人の足だ。父は水虫にならぬようにと毎日指の間に薬を塗りこみ、私は硬直を防ぐために毎日マッサージを繰り返したのだ。見紛うはずがない。しかし、なぜ今ここに、父と娘ふたりそれぞれの、ひとつきりの、愛してやまぬ求めてやまぬ人の足が横たわっているのか。
いつまでも消せぬふたりの母への想いが呼び寄せてしまった幻だろうか。それとも、相容れぬ感情の手強いしこりに未だ右往左往している情けない夫と娘を見かねた母が甕の蓋を開け、ぽんと1本、自分の足を投げてよこしたのだろうか。
父と私は頭を垂れ、物言わぬ白い足をただただぼーっとみつめた。今まで経験したことのない穏やかな時間が流れる。
「もう今日はこのままねようかのう」
父が甘えるようにつぶやいた。
「うん。それがええかもしれんね」
私もうなずいた。
父と私が土甕の中に押し込め引きずり回していたやり場のない時間が、ずるりと剥けていく。
「おやすみ」
父のからだに、そおっと毛布をかけた。
かあさん、ありがとう。
私は電気を消して部屋を後にした。