第6回

じいちゃんばあちゃんたちとの早朝ラジオ体操を終えると、いつもはひとり、国道沿いに最短距離でアパートに戻る。だが、一週間後に胃の手術を控えたこの日、何を思ったかふと、全く別のルートを行く散髪屋のじいちゃんの後をついて帰る気になった。

前かがみにスタスタ歩くじいちゃんの赤いジャンパーを目印に「待ってください。今日はいっしょに帰ります」と小走りで追いかけた。神社の裏側の坂道を降りきると、新たな山道が伸びていた。枯れ葉とじゃりじゃりの小石を踏みながら、じいちゃんに遅れないように必死で歩く。へええ、こんな裏道があったんだ。体操が終わったとたん姿が見えなくなると思ったら、ここを通ってたのかぁ。私は、興味津々で、腕を大きく振ったりなんかしながらじいちゃんの後ろを歩いていく。

四~五分無言で山道を登ったところで、じいちゃんが、ぼそっとつぶやいた。

「このあたりはなぁ、下手をすると野犬が出てくるからなぁ。おなごの衆は、あんまり歩かん方がええんじゃがのぉ」

「や、野犬? 歩かん方がええって、今歩いてるじゃないですか。、ど、どうすればいいんですか? 教えてくださいよ、ねえ」

畳みかけて問う私に、じいちゃんは「来てしもうたもんは仕方がない。そういうふうにあたふたするんが一番まずい」と言った。

そこから先の道は、そこまでとは別物の異界通路。野犬、あっちから出てくるか、こっちから出てくるか、いやそれとももっと別の……とじいちゃんの赤いジャンパーを後ろからひん握って進む。

そのうち、曲がりくねっていた薄暗い細道の両脇からくる圧迫感がさあっと消えて、目の前に墓地が広がった。視界が良くなった分、こころもとなさも広がった。墓地は、すり鉢状に周りを囲む山の底にあり、全方位からの野犬の襲撃が可能にもなったわけだ……。

やばいぞ、これじゃ彼らはどこからでも駆け下りて来れるな、と思った瞬間、左手の墓石の間から、ぬっと二匹の犬が現れた。低く這うような姿勢でこっちの様子を伺っている。ごつっと浮き上がった肩骨と同じ高さに四つの濡れた目玉が並んでいる。

わりゃぁ、ここだれのりょうちとおもうとるんじゃぁ あぁん? おんどりゃぁ

いたいめにあいたいんかぁ

聞こえる。二匹の声が聞こえる まずい

帰りたい帰りたい帰りたいです

私の心の声を背中で聴き取ったか、じいちゃんが、目にもとまらぬ速さで小石を拾い上げ、二匹の足元めがけて投げつけた。

小石はビューッと飛んでった。迷いななき石礫に、二匹がすくんだ。その一瞬を捕まえじいちゃんの石礫がもう一つ! 

ぎゃん ぎゃん ぎゃんぎゃん

捨て台詞ならぬ捨て吠えを残し二匹は立ち去った。

いまのうちです、はよはよじいちゃん、はよいこ、じいちゃん

まともな息の吸い方も吐き方も思い出せず、カチコチに強張った体を無理やり前に押し出す。前を歩くじいちゃんは何も言わない。沈黙の行進。

突然、はるか前方にひとかたまりのくすんだ影が浮かび上がった。影の周りが朝もやを払うようにゆらっと揺れる。その中央に異様に光る眼玉。まっすぐに立ち上がった尻尾と黒い耳。機械油の浸み込んだぼろ刷毛のような体毛。ゆっくりこっちへ向かってくる。一匹。二匹。三匹。さっきのやさぐれ犬たちとは、まるで気配が違う。でかいだけでなく、一度も飼いならされず死肉を食いちぎって生きてきた凄みが漂ってくる。

じいちゃんが、両足を少し開き、ぐっと腰に力を入れたのがわかった。わたしもふんばる、みたいなまねだけはしてみたものの、石綿のように体がふわふわして重心が定まらない。そのあいだにも、やつらは前足の爪を地面に突き立てるようにして、低い構えでじり、じりっとにじり寄ってくる。 

やめてください。おねがい、やめて。私は何にもいたしません

情けない気配が、私の全身から抜け出ていく。

「来るぞ。ひるむな」

押し殺したじいちゃんの声と同時に、ウオォォォ グフッ ウオォォォ

むき出しの牙。砂埃。地面をけり上げる黒い爪。三匹が、ものすごい勢いで吠えかかってきた。

じいちゃんの赤いジャンパーがくわっとふくらんだ。次の瞬間、じいちゃんのど真ん中から地鳴りのような声が突きあがった。仁王立ちしたじいちゃんは、真っ赤に焼けた鉄城門だ。がっちり閉められた赤鉄の門の前で三匹の動きが、ぴたと止まった。鬼ヶ島にたどり着いた忠義の犬たちならば「かいもん、かいもーん」と吠え立てるところだが、目の前の三匹は、無言。すり鉢の底の決戦場は静まり返ったままだ。一分、二分と過ぎていく。

突然、真ん中の一匹が、ガウウウッと一吠えを残し、くるりと向きを変えた。そのままゆっくりと来た道を引き返していく。両脇の二匹が、その後に続く。

遠ざかる荒くれ者たちの姿を、私は放心状態で見送った。

「急いで抜けるぞ」

じいちゃんが小声で私を促した。速足で墓地を抜ける道の途中で、風の向きが変わったのか、脇の茂みからつううんと、獣臭いにおいがした。そのにおいを嗅いだ瞬間

不法侵入者が報いを受けているような、バツの悪い思いが込み上げてきた。

おまえはいったい何者だ。にんげん? それはいつからだ? ここは、野犬がうろついているからこわい? うろついているのはおまえのほうだろう。歩き進めれば進めるほど、「ここ」の責めが、私の胸に食い込んできた。野犬たちは、ここで生きている。狩って、食って、生きる。それだけだ。そこに割って入っておいて、こわいとおびえる。それも、年寄りのかげにかくれて。生き物として向かい合うことさえできなかった自分が、みみっちく恥さらしな気がした。

と同時に、二度と会いたくないはずの野犬、ウエスに廃油をしみこませたようなあの体毛を抱きしめて、人間として生まれてくるずっとずっと前の遠い道をいっしょに歩いてみたいような奇妙な感覚にとらわれた。

それから入院するまでの一週間、深夜大学の通用門を出た拍子に、葉っぱを落としたはだかの柿の木を見上げた拍子に、どこかで野犬たちが吠えているような気がすることがあった。その声には、居場所の定まらぬ遠さと近さがあった。私は目をつぶり、荒ぶる野犬をなだめるように、胃のまわりをなでる癖がついた。