第9回


毎朝私が大学へ向かう道を、ほぼ同じ時刻に電動カートでゆっくりと進んでいくおじいちゃんがいる。私が歩くのとほぼ変わらぬ速度。必然的に、二人並ぶような格好で道を進んでいくことになる。

おじいちゃんのかぶる野球帽には金色の留め紐(正式にはワイアータイというんだそうだが、ビニール袋の先っぽをキュキュッとねじって止めるやつ)が、あちこちにくっついている。

最初は金色のバッジをいっぱいつけてるんかな、と思っていた。でも、帽子のてっぺんの丸いぽっちを囲むようにくくりつけてあったり、後ろ側のアジャスターと呼ばれる部分に何本何本も物干しみたいな調子で吊り下げてあったり……。いったい、何のために? これって老年のおしゃれ?

ちいさな空地の傍までやってくるとおじいちゃんの電動カートが止まった。スローモーションのようにカートから降りたおじいちゃんは、生え始めた道端の草を片手でぎゅっとわしづかみして、もう片方の手を上に。そのまま、帽子から例の金色紐を一本器用に抜き取ると、草の先っぽに、キュキュッと結んだ。


それから、再びカートに腰を下ろし、またのろのろと進み始める。しばらく行くと、今度は町内のゴミ出しステーションがある。ここでおじいちゃんのカートは再び止まった。コンクリートで固められたステーションの隅っこのひび割れから、草が数本伸びている。しゃがみこんだおじいちゃんは、帽子からまたまた金色紐を一本抜き取り、か細い草の茎にキュキュッと結ぶ。実に慣れた手つきだ。若いころ商売で覚えた指先のしぐさだろうか。


おじいちゃんのカートは、その後も、植物をそれも誰の目にも止まらないような草や木の枝の横で止まり、そして金色紐がそこここに、キュキュッと結ばれていく。


おじいちゃんの進んだ道を振り返ると、金色の結び目をもらった植物たちが、朝日を反射させてキラッ、キラッと光っている。ささやかな、いのちの点滅だ。


商店街の狭い道筋の突き当りまでたどり着くと、おじいちゃんはカートをUターンさせて、もと来た道をゆっくり引き返していった。見送りながら改めて考えた。おじいちゃんはなんのために、こんなことをしてるんだろう。

結ぶ・草を結ぶ……情けない話だが、ついついネットで検索してしまう。すると、すぐに<妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへり見む>という、万葉集の一首が出てきた。恋人との別れを惜しみ無事を祈るための行為を「草を結ぶ」と呼ぶ。そういわれれば、見た目はかなり違うが、おじいちゃんの結ぶ指先にも、なにかしら祈りの思いがこめられていたような。

友人にこの話をすると「ヘンゼルとグレーテルの街端に落としていくパンくずみたい。帰り道がわかるように」と言った。おじいさん、どこまでもお行きなさい、あなたが無事戻ってこれるように私たちはじっと動かずここにいます……か。


いや、違うんじゃないか。私には、言葉の代わりに光る紐を結ぶことで、目に留まったひとつひとつの存在に対しておじいちゃんなりに存在の承認をしているように見えた。おまえ、よし。おまえ、よし。おまえたち、よし……。


そんなこんなで、どうしても本当の理由が気になり、ある日意を決して私の隣をカートで進むおじいちゃんに「そのお帽子についているキラキラ、素敵ですね。それって、何に使うんですか?」と聞いてみた。さて、おじいちゃんの返答やいかに?

おじいちゃんは、カートから降りることなく私のほうを見るでもなく、だまって帽子のキラキラ紐を一本、しゅっと抜き取り私の目の前に、差し出した。


え? 私も、結ばれる? 

え? おまえ、よし? 


謎のまま、キラキラといっしょに立ち尽くす私を残し、おじいちゃんの電動カートはゆるゆると進み始めた。