Sola Presents

黒駒の勝蔵


黒駒の勝蔵(勤王博徒)


「じたばたしちョ。出タ事ア納まる」
(じたばたするな。できたことはおさまる)
──侠客番付は前頭

浄瑠璃、浪曲や講談などの語り物は、日本の伝統口承文芸である。なかでも浪曲師・二代目広沢虎造の代表作である清水次郎長の一代記「清水次郎長伝」は、ラジオ全盛時代に一世を風靡した。
〈旅ゆけば~駿河の道に~茶の香り~〉で始まる清水港の侠客・次郎長の物語は、しょっちゅう放送され、人気があった。
ここで次郎長の仇敵になるのが、甲州に勢力をもつ黒駒の勝蔵である。25歳で渡世人となり、やがて甲州一の大親分になっていく。
吉川潮作『江戸っ子だってねえ』(日本放送出版協会)は広沢虎造の一代記であるが、勝蔵に関するエピソードに触れている。
戦前、虎造が勝蔵の地元・山梨県甲府市で次郎長伝のひとつ『玉屋の玉吉』を演じたときのことだ。「黒駒の首はあっしがとる」という次郎長の子分である小政のタンカで、客席がざわつきはじめた。虎造は、勝蔵の地元で次郎長伝はやれないと幕を下ろさせ、あらためて舞台にあがって無礼を詫び、ちがう出し物を演じた。このことがあって、虎造は、次郎長伝が全国どこでも受けるとうぬぼれていたことを反省したという。
清水次郎長の物語では悪役になる黒駒の勝蔵の実像は、どうだったのか。
勝蔵は、甲斐国黒駒村の名主の次男として生まれたが、博打仲間に入り、大親分竹居安五郎の子分となる。その安五郎は、1862(文久2)年に捕縛されて牢死し、勝蔵が跡目を継ぐ。
勝蔵は、しょっちゅう「じたばたしちョ。出タ事ア納まる」といったそうだが、100人近くもの子分を抱えた男らしい、豪快な性格を表すような口癖だ。
やがて一家を解散し、相楽総三の赤報隊に入隊。池田勝馬(数馬)と名乗って勤王の志士となった。それには謎が多いが、安五郎の一件で幕府に反感をもったのだろうとも考えられている。
しかし、赤報隊は偽官軍とされ、相楽総三は処刑されてしまう。
京都にもどった勝蔵は、徴兵七番隊に入隊。1869(明治2)年に東京遷都が決まると、徴兵七番隊は第一軍隊と改められ、勝蔵は小隊長として、東京まで明治天皇の護衛をした。江戸城入城後に解隊命令が出るが、兵籍のまま甲州黒川金山(甲州市塩山)に入り、金鉱掘りに転身。1871(明治4)年に兵籍脱走で捕えられ、博徒時代の殺人も問われて、甲府の処刑場で斬首された。
元山梨県立図書館長の福岡哲司さんは言う。「地中に穴を掘って首だけ出し、通行人に鋸引きをさせようとしたが、そんなことをやる甲州人はいなかったと聞いたことがある。勝蔵の死を悼む人々の想いが、そんな言い伝えを生んだのだろう」と。首切りの刑が廃止されたのは、1882(明治15)年のことだ。
一方、佐幕派であった清水次郎長は、殺人罪で摘発を受けたが処刑されることなく、逆に十手捕縄をあずかって、街道取り締まりを命じられていたという。明治の世を生き延びて、畳の上で大往生している。
幕末という同時代に生きたふたりは、明治時代で大きく運命がわかれてしまったわけだ。
勝蔵が悪玉に仕立てあげられたのは、斬首という最期と、次郎長の養子だった天田愚庵によって書かれた「東海遊侠伝」のようだ。これを元ネタにした浪曲や講談が、善玉の次郎長、悪玉の勝蔵という図式をつくりあげたといわれている。
1952(昭和27)年に「オール讀物」に連載された『次郎長三国志』は、村上元三の長編歴史小説。浪曲やほかの資料伝説を元に執筆された。戦後のアメリカ統治下においては、チャンバラは禁制とされていたが、占領が終わると解禁。そんな時代背景もあって、熱狂的に読まれ、映画化されていった。
「街道一の大親分」と呼ばれた清水次郎長の仇敵とされた黒駒の勝蔵だが、地元には「甲州侠客傳黒駒の勝蔵」という銘柄のどぶろくがあり、全国から注文が殺到するほどの人気だという。(本木洋子)


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プロフィール


黒駒の勝蔵

●悪行・罪状
殺人罪・逃亡罪・関所破り

●職業
渡世人(やくざ)

●国籍
日本

●年齢
享年39歳

●出身地
山梨県笛吹市

●性別

●知力
勉強家。子どものころに檜峯神社神主武藤外記の私塾「振鷺堂」に学んだ

●決め台詞
「草鞋、ニイ(新)しくしたか。古草鞋では戦は出ンぞ」
「じたばたしちョ。出タ事ア納まる」

●末路
斬首


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